【三冊筋プレス】カフカ、絶望を笑う(米川青馬)

04/17(金)10:00
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 カフカは誤解されている。彼の作品の底には「笑いとおふざけ」の水脈がずっと流れている。

 『審判』の主人公ヨーゼフ・Kは、銀行の業務主任で頭取代理と上下を争うエリートだが、冒頭で逮捕されて以来、いたるところで馬鹿にされ、ひどい目に遭う。また女に弱く、そこここで誘惑されて術中にはまる。こう見ると、Kは志村けんのバカ殿にどこか似ている。

 また、『城』の主人公Kは、城には辿りつけないと周囲にいくら忠告されても城を目指し、やはりひどい目に遭うが、一向にへこたれない。「がんばればがんばるほど苦境を脱する希望は小さくなる」のだが、その「沈淪は生命をかきてる活力であり、人の能動性を大いに発揮させ、精神世界を不断に前へ発展させる」(残雪『魂の城』)。決して成功しない活動を滑稽かつエネルギッシュに続ける姿は、ミスタービーンに近い。

 つまり、カフカは、いまでは当たり前になった「笑いのフォーマット」をよく使っている。『城』で、ようやく城のしかるべき人物と会えそうになったところでKが眠りこけてしまうシーンなど、明らかにふざけている。カフカ自身、友人たちの前で『変身』を笑いながら朗読していたというから、きっとそれを自覚していた。
 しかし、現代の僕たちはカフカの作品をなかなか笑えない。なぜか。一つは、悪友マックス・ブロートが聖人君子のように紹介したからだ。たとえば、彼はカフカの日記から、遊び人の顔を抹消した。二人連れ立って夜の盛り場を遊び歩き、娼館に通ったことを隠した。
 カフカが死の間際に「全部焼いてくれ」と言って、ブロートに未発表原稿を託したのは有名だが、明星聖子はそれも二人の悪ふざけではないかと勘ぐる。彼らは二十代に旅行ガイドブックで一儲けする「百万長者計画」を企てた。今度は死後に原稿を一度に発表し、莫大な文学の名誉を狙ったというのだ。十分ありうることだろう。
 ブロートの影響で、僕らはカフカがただ真面目で神経質でストイックな絶望名人だったと思っている節がある。しかし現在は、ブロート版全集の後に批判版と史的批判版が出て全資料が公開され、「新しいカフカ」の像が明らかになっている。本来の彼には、嘘つきでふざけていて女好きで、金儲けに興味があり、大胆な一面もあった。当然だ。そうでなければあんな小説群は書けないし、恋人たちに嘘と諧謔に満ちた変てこな手紙を送りつづけたりもしない。それが「たくさんのカフカ」の実際だ。
 カフカの作品が笑えないもう一つの理由は、冗談がすぎるからだ。わけも分からず虫になる『変身』。突然理由不明で逮捕される『審判』。いつまでも目標にたどり着けない『城』。どれもこれも自分なら絶対立たされたくない悪夢的な状況だ。笑いを誘う箇所は実はいくつもあるが、全体の冗談がキツすぎて簡単に笑えない。
 なぜ彼はキツい冗談を書いたのか。やはり世界に絶望していたからだろう。明星は、カフカの出発点は「すべては欺瞞だ」という見方にあるという。彼はセックス・愛・結婚をすべて汚く滑稽なものと捉え、どれもが二人をつなげず、誰もが果てしなく孤独でしかないと見た。また、誰もが権威の構造から逃れえず、学問や文学は決して純粋ではなく、自分もブロートも詐欺師だと考えた。カフカの目には、世界は嘘と欺瞞で満ちていたのだ。

 残雪は『審判』の結末を「自己欺瞞は自己審判によってあばかれ、Kは生きる術のない致命的な苦境に陥った」と表現したが、彼は他の多くの作品でも嘘、欺瞞、自己欺瞞、そして絶望について書いた。その結果、「笑えない笑い」の作品が次々に生まれたのだ。
 『うそつき』のチャールズ・V・フォードによれば、うそは動物界に広く見られる特性であり、われわれはみなうそつきだという。それどころか、自己欺瞞はヒトの心にむしろ欠かせないもので、自己欺瞞が多いほど精神的な病が少なくなる。反対に、「うつ病にかかる人はこの『正常な』自己欺まんのメカニズムを利用する能力の劣っている人で、自分自身および外界をより現実的に見る性癖を持った人」なのだ。
 『文豪はみんな、うつ』という本があるとおり、優れた文学者はうつ病などを抱えることが多い。彼らには身も蓋もない現実を直視する力があったのだろう。そのために文豪となり、引き換えに精神を病んだのだろう。
 しかし、カフカは神経質で不眠症ではあったが、うつ病ではなかった。結核にかかった後も活発で、死の寸前まで精力的に書いた。世界の嘘と欺瞞を直視して絶望していたにもかかわらず、彼がうつ病にならなかったのはなぜか。きっと笑いとおふざけを武器にできたからだ。笑えない笑いの作品を書き連ねることで、精神の安定を得たのだ。それなら、僕らはそろそろカフカの作品を笑えるようになったほうがいいのではないか。絶望を笑うことこそ、絶望名人から学ぶ一番の方法ではないか。

 

 

●3冊の本:

 『魂の城 カフカ解読』残雪/平凡社
 『カフカらしくないカフカ』明星聖子/慶應義塾大学出版会
 『うそつき』チャールズ・V・フォード/草思社

 

●3冊の関係性(編集思考素):一種合成型


  • 米川青馬

    編集的先達:フランツ・カフカ。ふだんはライター。号は云亭(うんてい)。趣味は観劇。最近は劇場だけでなく 区民農園にも通う。好物は納豆とスイーツ。道産子なので雪の日に傘はささない。