【三冊筋プレス】一流の少女は須く神である(小濱有紀子)

2020/12/07(月)10:40
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「あのう、わたくし、ここからどこの道を行けばいいか、教えていただきたいんですけど」
「そりゃ、あんたがどこへ行きたいかによるわな」
「どこだっていいんですけど」
「そんなら、どの道だってかまわんだろ」


 ルイス・キャロルことチャールズ・ドジソンが、お気に入りの少女、アリス・リデルのためだけに書いた物語は、1865年、全世界の少女たち、少女の心を持ったまま成長した上等な大人たちの心をワクワクさせる物語になった。
 そう、『不思議の国のアリス』の持つ永遠の少女性には、誰も敵わない。それはキャロルが隠そうともしない、少女愛という性癖こそが、すべての少女信仰の原型だから。わけ知り顔の良識ぶった大人が、むしろ少女のように恋に恋しながら、とっておきの頭脳と話法を隠蓑に、一途な想いを一流の物語にしてしまったのだから、その迷走する恋路を、ついつい覗き見せずにはいられない。

 そんな少女たちの危うさを愛おしく見つめ、包み込む作品に昇華させたのは、神と人、両義的少女時代を通過してきた、日本のEXロイヤル・クマリこと山田詠美。上等な大人になれる素質を持った少女たちのため、1989年に醸した物語は、その実、ふたりの文学少女の心にひそやかな灯を残し、やがて大きな炎となって、2003年芥川賞をダブル受賞する※、まったく別の物語に換骨奪胎されるまでになった。(※平成15年/2003年下半期 第130回芥川賞 金原ひとみ『蛇にピアス』、綿矢りさ『蹴りたい背中』)
 そんな色あせない作品『放課後の音符』で奏でられるのは、1ミリ先にある恋する人の肩を、100万光年先に感じてしまう少女たちのほんのりとした、でもきゅっと胸を締めつけるような痛々しいせつなさだ。香水の香りやヒールを履いた足の痛み、そして今ではすっかりタブーになってしまった、舌に残るアルコールやタバコの苦さに乗せて。

 

 さて、古今東西、人々が惹かれ続ける「少女」とは、いったい何なのだろうか。

 この問いへのヒントになり得る本として、植島啓司の『処女神 少女が神になるとき』が、私に降ってきた。ネパールの処女神「クマリ」崇拝について、1982年から2010年まで足掛け28年におよぶ、著者のフィールドワーク研究の集大成である。
 著者は、処女神クマリに惹かれ、その神性が育まれるネパールに惹かれ、彼の地を中心に何度もフィールドワークに訪れた。キャロルの霊が乗り移ったかのような情熱、さらには古今東西、少女をテーマにした物語や、現代サブカルチャーにおける少女性が、この本には潜む。それらとクマリの美しさと重ねてみる。心を鷲掴みにされないわけがない。

 「生き神」とは何か。なぜそのような不合理なもの…「人であって神である」ものが、この世に存在しうるのか。どうしてその信仰がカトマンズ盆地にだけ残ったのか。さらには、2008年に王制を廃止し、連邦共和国となったネパールにとって、王制と密接なつながりを持つクマリはどのような運命をたどることになるのか。
 一方で、クマリは仏教徒の中から選ばれることになっているが、では、ヒンドゥー教を国教とするネパールにおいて、チベット仏教のダライ・ラマやブータン仏教のジェ・ケンポとはいかなる関係にあるのか。ヒンドゥー教と仏教はこれからいかなる関係へと変化していくのか。
 そういった宗教的背景はもちろん、歴史的背景、「祭り」の持つ意味、少女神伝説とその身体的特徴、仏教そのものの存在、「生き神」そのものの理由。各テーマをに連なる物語と絡めつつ、単なる伝説ではないリアルな少女たちの今とその後が、15回にもおよぶ調査によって丁寧に積み重ねられ、解きほぐされていく。
 だが、生き神として現在進行形で存在し続ける「クマリ」の謎に、明確な答えは出ない。それどころか考察を重ねるたび、またさらなる謎が生まれる。開いては閉じ、閉じては開ける、アリスの迷宮のように。

 ただ、ひとつだけ、気づいたことがある。

 「クマリ」の謎の後ろに通奏低音のように流れているのは、多くの人々がいだく幻想的な処女性・少女性ではない、もっと背伸びした痛々しい純粋さだ。それは、身の丈にあった似合うものに埋没することなく、大人になるために無理をしたい、フツウの「少女」たちとなんら変わらない。無垢な少女と早熟な少女は、それぞれに存在するのではなく、ひとりの少女の中に同居する。これくらいの年齢の女の子は、誰しも自分のなかに相反する矛盾を抱えこんでいるのである。
 器を先につくって、それに自分を合わせようとする、このほんのりとした、でもきゅっと胸を締めつけるようなせつなさこそ、神に準じる少女そのもの。だからこそ、愛と慈しみの女神でありながら破壊の女神タレジュの化身とされ、処女でありながら大女神的な性格を持ち得ることができる。
 歴代のロイヤル・クマリたちに、神としての記憶の片鱗も残されていなくても、仏教やヒンドゥー教、その他の信仰が折り重なるような場に、処女神クマリが位置していて、ひたすら転生を繰り返す。神という概念だけがリアリティを持ち、彼女らの身体を通過していく。歴史はたえまなく動き、それを動かす力(実体)はどこにも存在していない。それでも、宗教は人を救う。

 クマリだけではない。アリスもカナもリエも、少女神のひとり。いや、走るウサギを待ち、放課後を楽しみにしている少女たちは、みんなそれぞれ、自分だけの世界の神なのだ。
 大人になるにつれ、自分の周りの社会は広がる。そのたび、内側にあるぐちゃぐちゃとした感情の濃度は、少しずつ下がっていってしまうのかもしれない。けれど、そうして一流の少女時代を過ごしてきていれば大丈夫。「わかったわ」と「きっとこうなんだわ」をたくさん胸につもらせてきた少女たちは、交わし合いのためのきわどいインターフェースやフィルターのみ、巧みに言葉化し、視覚化することで残していける。自分の中に、鮮やかな夢を抱えたまま、その先も生きていける。

 だから、もうしばらく、あとしばらく。クマリのように着飾った澄まし顔で、そしてお眠り、アリス。

 




 

【多読ジム Season03・夏】

 ●スタジオゆいゆい

 ●アイキャッチ画像:
  左:『不思議の国のアリス』ルイス・キャロル / 新潮文庫
  中央:『放課後の音符(キーノート)』山田詠美 / 新潮文庫
  右:『処女神 少女が神になるとき』植島啓司 / 集英社
 
 ●3冊の関係性(編集思考素):一種合成
  『不思議の国のアリス』─┐
              ┼─『処女神 少女が神になるとき』
  『放課後の音符』 ───┘


  • 小濱有紀子

    編集的先達:倉橋由美子。古今東西の物語を読破し、数式にすることができる異才。国文学を専攻し、くずし字も読みこなす職能。自らドラムを打ち鳴らし、年間50本超のライブ追っかけを続ける情熱。多彩で独自の編集道を走る、物語講座・創師。