【三冊筋プレス】世界の見方がかわる時(戸田由香)

2021/02/25(木)10:24
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 1633年、ガリレオは異端審問の場で「それでも地球は動く」と呟いた。近代の幕開けとなった科学革命に匹敵する、アフターコロナのパラダイムシフトとは何か?

 

◆瀕死の資本主義システム

 

 資本主義の終焉が囁かれて久しい。現代のパラダイムシフトの中心にあるのは、地球環境を破壊し、格差を広げ、もはや死に体となった資本主義というシステムだ。

 資本主義は無限の経済成長を追い求めた結果、地球環境に深刻なダメージを与えた。人類の活動が地表を覆い尽くす時代、それを「人新世」と呼ぶ。グローバルサウスを外部化し、労働力、資源エネルギー、食料を収奪して、富を蓄積するのはグローバルノースの一部の富裕層である。もちろん日本人もその一員だと斎藤は告発する。我々の帝国的生活様式をあらためない限り、温暖化や気候変動は改善されない。

 

◆マルクス温故知新

 

 かつてマルクスの思想は、資本主義に代わるものとして社会主義国家を生み出した。今また斎藤の丹念な研究により、古きマルクスの思想から、資本主義に代わる新たな理論的支柱が導かれようとしている。斎藤は『人新世の「資本論」』で、マルクスの晩年のノート研究をもとに、相互扶助と自治にもとづく新たな社会システム、「脱成長コミュニズム」を提示した。

 これまでわたしたちは、物質的豊かさの追求が正義であり、善であり、社会全体で追求すべき価値である、という資本主義のドグマにどっぷりと浸かってきた。脱成長コミュニズムのもとで、社会が目指すべき理念の構築は、これからの課題である。わたしたちは、経済成長に代わる新たな理念を創造できるのだろうか。

 

◆物理学による世界の再解釈

 

 「風が吹きすさぶガランとしたその風景に、時間の痕跡はほとんど残されていないように見える。本質だけが残された世界は美しくも不毛で、曇りなくも薄気味悪く輝いている」。

 これは出来事と関係だけが存在する時間のない世界、カルロ・ロヴェッリが詩的に描く量子力学の心象風景である。

 ロヴェッリは、一般相対性理論と量子力学の統合を目指す《ループ量子重力理論》の専門家だ。ヒッピー文化に憧れ、学生活動家として社会との接点を求め放浪の生活を送ったのち、極微の世界の謎を解くことを誓った。彼にとって物理学とは、純粋な美を理解することであり、「世界に対する新しい見方」を提示する営みである。元ヒッピーの物理学者は、物理学を通じて世界の再解釈を試みる。

 

◆時間のない世界

 

 ループ量子重力理論は、「時間や空間は根源的なものではない」という新しい見方に基づいて世界を記述する。ロヴェッリによれば、この世界の根源にあるのは、「空間量子」のネットワークであり、その相互作用である。そこに時間の流れは存在しない。

 ではなぜわたしたちは時間が流れるという強烈な感覚を持つのか? ロヴェッリは、『時間は存在しない』の中で、アウグスティヌスやフッサールに言及しながら、過去だけに関わる記憶の非対称性に由来すると指摘する。そして時間とは、「本質的に記憶と予測でできた脳の持ち主であるヒトの、この世界との相互作用の形であり、わたしたちのアイデンティティーの源」だと説明する。

 

◆宇宙の片隅に生きる

 

 宇宙においても、時間の流れは根源的な法則ではなく、宇宙の片隅にいるわたしたちの目に映る特殊な眺めだ。無限の多様性を持つ広大な宇宙で、わたしたちはある特殊な系に暮らしている。ここでは、たまたま熱時間の流れの片方におけるエントロピーが低くなっている。そのためわたしたちは、エントロピー増大を時の流れとして経験する。特別なのは、初期宇宙の状態ではなく、わたしたちが属している小さな系の方なのだ。

 観測データでは、138億年前のビッグバンは、エネルギー分布にほとんどゆらぎのない状態だった。しかしロヴェッリの考えでは、このデータは宇宙全体の状態を表したものではない。わたしたちが見ているのは、偶然低エントロピーで始まり、生命が誕生した、極めて特殊なサブシステムだというのだ。

 

◆王者からの転落

 

 近い将来に起こりうる最大のパラダイムシフトとして、『相対化する知性』が指摘するのは、人工知能の社会実装による知の枠組みの変革だ。これは知性の「相対化」、つまり、人間よりも優れた知能をもつ外部存在(人工知能)の出現により、人間知性万能主義に終止符が打たれるということである。一方で、人間の想像を超えた科学の法則の発見や、新たな概念の創出が可能になるのではないか、というスリリングな仮説でもある。

 日本の人工知能研究の第一人者である松尾豊によれば、知能とは、目的に応じた世界の構造化と、予測の能力を指す。人間は複雑な環境をモデル化し、取り巻く環境に対し精度の高い予測を行うことで、食べ物を手に入れたり、仲間と協働して生命を保ってきた。人間の知能は、生きてきた環境特有の問題を解くようにできており、そのために必要のない概念は見つけていない可能性があると指摘する。それは、エスキモーが雪の細かい概念を持ち、日本人が魚の細かい概念を持つことと裏返しの関係だ。人工知能はこうした環境依存の目的性を持たないため、人間的な制約を軽々と超え、新たな概念の発見をする可能性がある。

 

◆知の拡張としてのAI

 

 高度な人工知能の出現で、世界を外から観察する人間理性、という近代的世界観の暗黙の前提は崩れた。そこから人間の知の発展(そして人工知能による知の拡張)も、宇宙で生起する秩序形成のひとつである、と捉える新たな世界観にシフトする。西山はこの世界観を「強い同型論」と呼ぶ。人間だけを特別視しないものの見方だ。

 これまでの理性というツールを上回る、知の拡張としての人工知能を手に入れて、わたしたちは格差や地球温暖化など、様々な課題を解決する方策を見いだすことができるのだろうか。人間知性と同じように、人工知能の可謬性を出発点に置くことで、ホモ・デウス的なディストピアではなく、知の大躍進による人類のユートピアを描きたい。

 

◆未来予想図

 

 かつて宗教改革、科学革命を経て、神に変わって人間理性が主役となる近代が始まった。近代へのパラダイムシフトと同様の大きな変化が、いま起こりつつあるのではないか。

 ルターが95ヶ条の論題を既存カトリック教会に突きつけたように、グローバル資本主義は、脱成長を突きつけられている。科学革命によって、天動説から地動説へと宇宙観が180度転換したように、わたしたちが観測している宇宙は、唯一の宇宙ではないかもしれない。むしろわたしたちは、エントロピーの軛に囚われ、宇宙の特殊な片隅で、束の間秩序を形成し、生命を跳躍させる特別な系に属しているのだろう。そして神に人間理性が取って代わったように、人間理性のライバルとして、人工知能が台頭しはじめている。

 こうした大きな変化のうねりの中で、私たちは世界をどのように再解釈し、どのような未来を描くことができるのだろうか。

 

 

Info


⊕アイキャッチ画像⊕

∈カルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』(NHK出版)

∈斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書) 

∈西山圭太・松尾豊・小林慶一郎『相対化する知性』(日本評論社)

 

⊕多読ジム Season04・秋⊕

∈選本テーマ:2020年の三冊

∈スタジオ935(浅羽登志也冊師)

∈3冊の関係性(編集思考素):三位一体

 


  • 戸田由香

    編集的先達:バルザック。ビジネス編集ワークからイシスに入門するも、物語講座ではSMを題材に描き、官能派で自称・ヘンタイストの本領を発揮。中学時はバンカラに憧れ、下駄で通学したという精神のアンドロギュノス。

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