【三冊筋プレス】女はもだえよ、男はすさべ(大音美弥子)

2021/06/10(木)10:51
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1976年のサッショー

●新人類ver.0の目に映ったものは

 

 ありがちな世代区分では、ベビーブームの嵐の後、ながくつづいた沈黙のしっぽ、新人類が萌え出るきざしのあたり。だから物心つくころは学生運動とGSの双方がたけなわで、よく区別がつかないままジーンズに長髪のおにいさんたちを眺めていた。あのころが、女より男が元気だった最後の時代だったのではなかろうか。日本の男は、スサノヲに憑依されるいっときにわかに元気づき、その期間がすぎると身も心も蓑虫の真似をして、大樹からぶら下がりたくなるものらしい。


 学生運動があさま山荘の事件で終結するのと、「モーレツからビューティフルへ」の声のどっちが先だったか。世の中はゼンガクレンだったおにいさんたちを「団塊」という数をたのむ集団のなかに消化し、就職運動のために髪を切って背広を着るセレモニーが定着していった。わたしはなんだかがっかりして、それ以降長髪の日本男児をいっさい信用しなくなる。フォークやニューミュージックのむささ・ダサさは論外だ。心にそう刷り込んで少女まんがの世界に逃避したから、忌野清志郎の登場に気づくのが遅れた。


 やがて世紀の変わり目になると、WHOが健康の定義の一環に”spiritual health”を取り入れるかどうするか議論があった。”spiritual”? 霊? 魂? 日本人にそんなのあるの、と反射的に感じた自分に驚いた。「ヤマトだましい」は先の戦争で使い果たされ、霊も魂も日本人にとっては死者を指すことばに変質したように思えた。それから20年。生者の”spiritual”はますます希薄になりつつあるが、それでもなお日本人の魂とその面影を伝えてくれる日本人は、少数ながら存在する。

 

●縄文人洋子の魂は何処に

 

 佐野洋子の特徴は、絵も文も「古代の魂」を残している点に尽きる。『神も仏もありませぬ』は、南軽井沢に60代の数年を借りぐらした著者が都会と高原、高度資本主義と前近代、生きることと死ぬことと老いることをめぐって思索しながら自然と伝統的無意識にひれ伏してみせた快著だ。しかし、高原に定住する農民夫婦に「全ての自然は、あなたたちのもの」と最大限の敬意を払いながらも、実は土地を所有し作物を撒いて太陽の分け前を収奪することに、彼女が相当の羞恥を覚えていることもうかがえる。


 自ら根無し草を自称し、それでも日本中どこのお寺の鐘にもジンとする洋子さんは、大陸からの引揚船に乗った8歳の頃、弟の手を握りながら帝国日本=「ワルモン」の代表として大陸に謝っていた。山河はなくても敗れた国に属する彼女は定住以前の狩猟採集民の仁義を持ち、その作品は縄文土器のように、日本人の薄っぺらな魂をふるわせる。


 飼い猫のフネがガンで余命1週間と告知されると、洋子さんはかすかに波打つ腹を見て、臨終の床にいた亡父の姿を思い出す。農家の七男だった彼が故郷からの音信を待ち続けていたこと、それが来ないだろうことを19歳の長女は知っていた。洋子さんは獣医からもらった抗ガン剤をフネには一錠も飲まさず、一番高いかんづめをスプーンでとり分けて食べさせてやる。フネは飼い主の顔を立てて食べるフリをする。生き物の宿命である死をそのまま受け入れる目にひるんだ洋子さんは、その静寂の前に恥じ、粛然として「私はこの小さな畜生に劣る」と言い放つ。草木国土悉皆成仏の一歩先をいくのが、日本の狩猟採集の魂なのだ。

 

●もだえ神、いかにおわしますや

 

 同じ場面に出会ったら、万物が呼吸しあう世界の天からことばを預かった石牟礼道子はきっと「いじらしさを花にして、たてまつ」らんと能を奉納したことだろう。大学生の頃に『苦海浄土』に感応し、「私も胎児性水俣病患者であったかもしれない」と心を寄せた田中優子もまた、「もだえ神」としてそこに駆けつけ、何もできなくても一緒に苦悩することを選んだだろうか。


 水俣病は敗戦後の日本が復活していく高度成長の副作用という文脈で語られることが多い。その高度成長が、明治初頭から続く「総力戦」の継続であり、チッソの生産計画は企業単独でなく「官産一体」で進められたことを実証したのは、山本義隆『近代日本一五〇年 科学技術総力戦体制の破綻』という新書だった。


 本書が出たころの内閣が掲げた「一億総活躍社会」は「進め一億火の玉だ」の大政翼賛会臭を濃く放った。総力戦とは、二度の世界大戦で各国が取った戦時体制だが、日本のそれは幕末以来150年間続いているとするのが、山本の見方だ。アヘン戦争に敗れた中国の姿を目撃した江戸末期の危機感に端を発し、文明開化・殖産興業・脱亜入欧を経て、科学研究と技術開発は、国家の最優先事項でありつづけた。上昇志向も勤勉も貯金好きも格差も、そこが出発点だったのだ。しかし、科学戦への手ひどい敗北を告げるヒロシマ・ナガサキの後、国家も科学者も一般民衆も、国を狂奔させた総力戦体制の理由を「精神(魂)」にのみ求め、科学動員という方法を反省しなかった。転機のたびに踏みにじられた日本の魂は、きっとその時息絶えたのだ。歴史を巻き戻すことはできないが、せめて2011年の福島の原発事故を転換点とすべきだと静かに促す山本も、また「もだえ神」の一人だろう。

 

 

●シン・スサノオを召喚したいのだ

 

 山本が1960年代末期、物理学の牙城から地に降り「産軍学複合体の暴走」に異議を申し立てるアメリカの学生運動に共闘する全学連の代表者だったことは、有名だ。ゲバ棒の学生たちは、同じものを見つめる「共視」によって価値観を共有した。「これはもだえ神の生まれる『場』」である、と彼らより一世代下の田中優子は読み解いたが、首謀格として国家に将来を奪われた山本は、根の国に住まい八岐大蛇を退治るスサノヲになった。

 

 近代に向かう国民国家が弱い者を犠牲にしたのは、世界共通の歴史である。しかし、山への畏れや生類たちとの共感が現代にもところどころ奇跡的に残るのは、日本に根深いアニミズムのおかげだろう。生死を越えて貴い魂があることは、高群逸江から石牟礼道子が学んだ「母性我」や洋子さんのハマった「浪曲」を通じて次世代に伝わってゆく。


 わたしが十代を通じて見届けたのは、生死の境、革命の不成就、システムの強靭さ──30年以上も後にエルサレム賞受賞作家が述べた「高く堅い壁に当たって砕ける卵」の姿だったが、それはあくまで現象面のできごとにすぎない。「たびたび死ぬからこそ蘇って、永遠なるものになってゆく」、それが魂だと教えてくれる「母性我」に、そのころ出会っていたら、どうだったかはわからない。どっちみち自分は、神も仏も多すぎる日本にあって、血のつながらない女たちともっともっと親密な関係を結び、時に新たなスサノヲを呼びたいのだ。
 男がすさべない 世は女のもだえが足りないのか、はたまた逆か。魂をよみから還すすさびともだえを取り戻そう。 

 

INFO


∈佐野洋子『神も仏もありませぬ』(ちくま文庫)

∈田中優子『苦海・浄土・日本』(集英社新書文庫) 

∈山本義隆『近代日本一五〇年 科学技術総力戦体制の破綻』(岩波新書)

 


⊕多読ジム Season05・冬⊕

∈選本テーマ:日本する

∈スタジオこんれん(増岡麻子冊師)

∈3冊の関係性(編集思考素):三位一体(入れ子型)

 


  • 大音美弥子

    編集的先達:パティ・スミス 「千夜千冊エディション」の校正から書店での棚づくり、読書会やワークショップまで、本シリーズの川上から川下までを一挙にになう千夜千冊エディション研究家。かつては伝説の書店「松丸本舗」の名物ブックショップエディター。読書の匠として松岡正剛から「冊匠」と呼ばれ、イシス編集学校の読書講座「多読ジム」を牽引する。遊刊エディストでは、ほぼ日刊のブックガイド「読めば、MIYAKO」、お悩み事に本で答える「千悩千冊」など連載中。