【三冊筋プレス】新しい末世(米川青馬)

2021/05/20(木)10:02
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★VUCA=諸行無常

 

 これから書くことは、現時点での僕の予感であり、間違っているかもしれない。あるいは、おおげさかもしれない。一種の物語として読んでいただけたらと思う。

 

 2021年の2月と3月に、『子午線の祀り』『義経千本桜』という平家物語ものの舞台を立て続けに見て、「もしかしたら、僕らはいま末世を迎えつつあるのかもしれない」と予感した。
 そう思いついたのは、ただ一つの理由による。数年前から、ビジネス界で「VUCA」という言葉が飛び交っているからだ。VUCAとは、不安定さ(Volatility)、不確実さ(Uncertainty)、複雑性(Complexity)、曖昧さ(Ambiguity)の頭文字を取った概念で、一言にまとめれば「先行きが見えないこと」を指す。


 2つの舞台を見て気づいたが、VUCAと諸行無常は似ている。ほぼ同じ意味といってよいくらいだ。VUCA=諸行無常が、僕たちが「新しい末世」に入ったかもしれない、と思う唯一のおぼつかない根拠である。

 

 


★いまや諸行無常は世の常識である

 

 現代の僕らは、日常的に諸行無常に慣れ親しみ、ニヒリズムと同居している。唐木順三は、1964年の時点で「ニヒリズムが普遍化し、すでにニヒリズムという実態が観念されえないほどに、ニヒリズムそのものが、のさばっている。ニヒリズムはすでに特定人の特定の主義や意見ではない。世界を挙げてニヒリスティックなのである」(『無常』)と書いたが、60年近く経ったいま、ニヒリズムはある面では完全に当たり前になっている。たとえば、芸能界。昨日まで誰も知らなかった者が突然人気者になり、売れっ子が驚くような速さで忘れられる。そこに定まった価値などは存在しない。こと流行にまつわるものはすべて同様だ。誰も何にも不思議に思わない。諸行無常は世の常識である。

 

 しかし、ビジネスの世界はそうではない。ビジネス流行語の多くは「進歩思想」に沿ってきた。イノベーション、クリエイティビティ、PDCA…。枚挙にいとまがない。次いで多いのは、サステナビリティやコンプライアンスなど、「既存システムの維持」のための言葉だ。いずれもニヒリズムや諸行無常の反対側にある。
 ビジネス界では総じて、進歩成長とシステム維持の物語が重視されてきた、と思う。これはこれで当然のことだ。企業組織はいつの日も、自分たちの仕組みを維持しながら成長し、新たな価値を生み出したいのだから。そのことを悪く言うつもりはまったくない。僕自身もビジネス界の端っこで稼いでおり、進歩成長とシステム維持の物語のなかにいる。

 

(ニヒリズムはもともと哲学用語だ。)

 


★ビジネス流行語のなかでVUCAは異質だ

 

 ところが、ビジネス流行語のなかで、VUCAは異質だ。おそらく唯一、ニヒリズムや諸行無常の側にある。ビジネス界でVUCAが幅を利かせているということは、「ビジネスも諸行無常だね」ということに等しい。
 実際はビジネスは諸行無常だ。そんなことはみんなわかっている。しかし、これまでは口に出すまでではなかった。ビジネス環境は比較的安定していたからだ。ところがいまや、わざわざVUCAと言わなくてはならないほど環境が不安定になり、ビジネス界は無常とニヒリズムに侵されてきている。進歩成長とシステム維持の物語だけでは、乗りきれなくなりつつあるように見える。

 

 具体例を1つ挙げる。僕はいまライターをしているが、いつAIライターが出てきて仕事を奪われてもおかしくない、と覚悟している。いくらライティングの腕を磨いても、優れたAIライターが登場したら仕事はなくなるだろう。進歩成長の物語では対処できないだろう。それが1年後か3年後か、10年後かはわからないけれど。たぶん、多くの職種が同様の状況にあるはずだ。VUCAである。
 困ったことに、脅威はAIやデジタルだけではない。極めて複雑な要因が、企業や仕事の先行きを見えなくしている。もっといえば、本当はビジネス界だけでなく、グローバル社会全体がまるまるVUCAである。なぜなら今後は、企業や国や資本主義のような大きな仕組みのかたちが劇的に変わる可能性があるからだ。それどころか、人間社会だけでなく、気候や太陽もどうやら変わってきた。

 

(『VUCA時代の●●』というビジネス本が増えている。)

 


★古いかたちはすでに荒れて
 新しいかたちはいまだ成らず

 

 末世とは、もともとは仏教の正法がまったく行われない末法の時代のことだが、端的には、世界の終わりのように荒廃した世のことを指す。
 日本の末世とは、平安時代後半に始まり、江戸幕府が立ち上がるまで続いた武士と戦乱の世のことだ。平安後期・鎌倉・室町は一時的には平和だったが、全体的には戦乱が多く、社会構造も変化が続いて不安定だった。もちろん現代は、京の都に死体がごろごろ転がっている、という意味での末世ではない。しかし、人々が大変化の渦に巻き込まれ、不安定な社会を生きる、という意味では、末世に似ているように見える。

 

 日本の末世では、皆が「無常観」に夢中になった。代表的な物語が『平家物語』だ。源平合戦をもとにした平家物語は、鎌倉時代に成立し、琵琶法師が寺社で語った。また、世阿弥などが能で盛んに取り上げた。平家物語は中世に立ち上がり、中世の人々が味わった物語だ。彼らは一息に栄え、一息に滅びゆく平家について聞きながら、自分も含めて何もかもが無常であることを感じ取った。
 兵藤裕己は、「源平交替の『歴史』の構想は、おそらく物語世界の内部において破綻している」という(『平家物語の読み方』ちくま学芸文庫)。なぜなら、平家物語は平家が負けて源氏が勝者になる物語だが、実際にはヒーローの義経はすぐに排除され、源氏自体もあえなく3代で消えるからだ。さらには、承久の乱が決定的な要因となって、天皇と公家社会も力を失う。実は平家物語は、出てくる大多数がもうすぐ滅びるお話の一部なのだ。当時、これだけのものが次々に滅びゆくとは、まったく予想できなかったに違いない。VUCAの極みである。

 

 これから到来する新しい末世でも、思ってもみなかったようなものが急に滅びたり、力を失ったりするだろう。平家や源氏や天皇がそうなったように。誰一人として、人ごとではないかもしれない。
 当時、鴨長明は平清盛が遷都した福原京を見に行って、『方丈記』に「古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず」と書き記した。まさにそんな風景が見える。国や企業や資本主義やなんやかんやの古いかたちはすでに荒れて、新しいかたちはいまだ成らず。

 

 


★計り切れぬ力に動かされている

 

 『子午線の祀り』で、滅びた平家の主人公・平知盛は「天と地のあいだにはな、民部よ、われら人間の頭では計り切れぬ多くのことがあるらしいぞ」と言う。当時の人々の実感に近いだろう、と感じた。

 『子午線の祀り』は、人間には計り切れぬ何かが働いて、平家が(そしてさまざまなものが)滅びた、とする演劇だ。計り切れぬ力の象徴として、壇ノ浦の潮の流れが取り上げられる。潮の満ち干は月の引力による。月の力が、源平合戦の決着をつけたのだ。平家・源氏と同じように、僕らは自分で動いているようで、実は計り切れぬ力に動かされているだけかもしれない。

 

 正直なところ、僕はいまなぜ自分がここでこうしているか、よくわからない部分がある。自分の意志で選んだような気もするが、計り切れぬ力に動かされているような気もする。末世は、計り切れぬ力を感じ取りやすい時代ではないか。日本人は、そうした力に敏感なのではないか。登場人物の影身が言う通り、「人の世の大きな動きもまた、非情なものでございます」とよくわかっていたからこそ、僕らの祖先は諸行無常を強調したのだろう。

 

 


★非情な時間は案外明るくかがやいている

 

 堀田善衛は、1945年3月、東京大空襲の最中に『方丈記』を繰りかえし読んだ。末世を迎えた、と思ったからだろう。僕らも堀田と同じように、あるいは『無常』『中世の文学』を書いた唐木順三のように、末世を生きた鴨長明、吉田兼好、道元などから学ぶことがあるのではないか。

 唐木によれば、長明は「歴史に対する鋭敏な感覚」をもち、方丈の庵と財産目録と身心以外を捨て、数寄の王者となって『方丈記』を書いた。兼好は、「無常性こそ反って一切の根柢である」ことを事実として『徒然草』に書いた。道元は『正法眼蔵』で、吾我を離れること、我執を去ること、自己執着を捨てること、即ち「身心脱落」を要請した。身心脱落者の共同世界では一切が無常だ。「一切が無常であるというところでは、無常への詠嘆は意味をもちえない」。

 

 唐木は、三人のように「無常なるものの無常性を、徹底させる」ことが、世界を挙げてニヒリスティックな現代に対抗する術だという。つまり、無常=VUCAを悲しんだり恐れたりせず、計り切れぬ力の作用を当たり前として受け入れれば、「非情な時間は案外明るくかがやいている」というのだ。ある日突然、自分の仕事がなくなっても、国や企業や資本主義がまったく違う形になっても、形容しようがないような未知の戦争が起きても、平然と受け入れろ、というのだ。正直、難しいだろう。しかし、言わんとすることはわかる。

 

 


★僕らは新しい末世を楽しめる

 

 実際には、長明や兼好や道元のように遁世出家するのは難しい。また、小川剛生が『徒然草をよみなおす』(ちくまプリマー文庫)に書いているように、兼好の遁世は「ありていにいえば渡世の方便」であり、実際には彼は「俗塵にまみれ続け」た。長明も遁世したのは老いてからで、それまでは渡世に精を出していた。長明や兼好と同じように、僕らは末世であろうとなかろうと、俗塵にまみれて何とか生きつづけなくてはならない。すべてを捨てるなんてことはどだい無理な話だし、する必要もない。

 

 しかし、堀田のように『方丈記』を味わい、『方丈記私記』を書くようなことならできる。たとえば、堀田は焼け跡の真ん中で、非情な時間が明るくかがやいているのを感じ取っている。「焼け跡のまん真中に立って、この『辻風は常に吹くものなれど、かゝる事やある、たゞ事にあらず』と呟くように口にとなえてみると、諸行無常の感などというよりも、ここでもまた奇怪な話だと思われる人があろうけれども、むしろ愉快、といったらますます異様なことになるにしても、真実に『たゞ事にあらず』という、肉体的にまでわくわくするようなある種の期待感が胸に盛り上って来るのであった」と書いているのだ。

 

 今年、僕には桜がはっきりいつもよりも美しく見えた。同時に、末世に西行がもてはやされた理由が少しだけわかった気がした。桜は、どうやら末世こそ美しいのだ。まるで自分たちの命のようだ、とヒリヒリ感じることができるから。
 しかし、勘違いしないでいただきたいのだが、末世は決して「終末」ではない。平家や源氏は滅びたが、北条氏や足利氏は栄えた。鎌倉新仏教や能や茶の湯が生まれ、心敬は冷えさびにたどりついた。戦乱ではない末世には、多くが滅びる一方で、もっとたくさんの創造があるだろう。僕らは新しい末世をきっと楽しめる。上手に創造し、楽しんだらいい、と思う。

 

 

 

Info


⊕アイキャッチ画像⊕
∈『子午線の祀り・沖縄 他一編』木下順二/岩波新書
∈『中世の文学・無常』唐木順三/中公選書 
∈『方丈記私記』堀田善衛/ちくま文庫

 

⊕多読ジム Season05・冬⊕

∈選本テーマ:日本する
∈スタジオ凹凸(景山卓也冊師)
∈3冊の関係性(編集思考素):二点分岐

 

        ┌『中世の文学・無常』

『子午線の祀り』┤

        └『方丈記私記』


  • 米川青馬

    編集的先達:フランツ・カフカ。ふだんはライター。号は云亭(うんてい)。趣味は観劇。最近は劇場だけでなく 区民農園にも通う。好物は納豆とスイーツ。道産子なので雪の日に傘はささない。

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