【三冊筋プレス】猫と道化とカーニバル(若林信克)

2021/11/02(火)09:17
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 14世紀北イタリアの僧院で禁書とされたある書物を巡って次々に殺人事件が発生する。ウンベルト・エーコのミステリー『薔薇の名前』である。その書物とはアリストテレスの「笑い」を論じた喜劇論『詩学 第二部』。その書物に触れたものは紙に塗り込まれた毒により死んでいく。中世という時代は、なぜ、それほどまでにして「笑い」を封印しようとしたのだろうか。

 

道化はカーニバルの体現者

 

 「笑い」を中世の世俗権力が公的に認めたものがカーニバルである。そこでは傍若無人な笑い、あけすけな態度や行動が許されていた。そのカーニバルの重要な儀式に「偽王の戴冠とその剥奪」がある。それは王の「死」と「再生」を演ずることにより、王国の外の「周辺」にある呪術的世界を「中心」である王国内に取り組むことを擬えていた。道化は王の傍に付いてこのカーニバルの機能を担っていた。

 『道化の文学』は15世紀末から17世紀初頭のルネサンス期に活躍した4人の作家を、道化を通して論じたものである。ルネサンスによる中世的体系の崩壊は「笑い」の復活をもたらした。エラスムスは『痴愚神礼讃』の中で聖書を「笑い」で批判し、快楽を追求する人間の本性を露わにしている。シェイクスピア劇の道化は、世界の中心に存在にする王の下で、王国の外にある呪術的な闇の体現者として仕えている。『リア王』は、王がその中心性を放棄したために世界が崩壊する物語である。狂ったリア王は「わしが誰か言えるものはいるか」と問い、道化が「リアの影さ」と答える。王は道化となり闇の世界に落ちていく。

 

文明開化を告発する漱石の滑稽  

 

 『吾輩は猫である』は、神経衰弱で英国留学から急遽帰国を余儀なくされた漱石が、高浜虚子に治療の一環として勧められて書いた小説である。漱石の江戸落語の素養が随所に溢れ、ダジャレや戯画化された人物、嘘や皮肉などの滑稽話が「猫」の口から語られる。しかし後半になるとシニカルな文明批評が多くなってくる。「ことによると社会はみんな気狂の寄り合いかも知れない。気狂が集合して鎬を削ってつかみ合い、いがみ合い、罵り合い、(中略)崩れたりして暮らして行くのを社会というのではないかしらん」と苦沙味先生が呟く。

 執筆時期は日露戦争に重なる。日本が国民国家としての体裁と自覚を整え始めた時期である。それは日本が江戸的文明を切り捨て西洋的帝国主義に突き進もうとする時代であった。漱石は西洋文明は市民の内発的なものであるが、日本の文明開化は外発的なものであり、すべてが上滑りし人は神経衰弱に陥っている、と明治の文明開化を論じている。『吾輩は猫である』はそんな上滑りし気狂じみた社会を道化を通して告発したものである。

 

1970年代のカーニバル  

 

 『ピンチランナー調書』は大江健三郎の描いた1970年代の戯画である。ある日38歳と8歳の親子が18歳と28歳の青年に「転換」する。二人はそれを宇宙的意思によるものと信じて、右翼の黒幕が核を使って日本を支配しようとする企てを阻むという物語である。

 ここには70年代を騒がせた役者たちが戯画化されて描かれている。核戦争が現実の脅威として感じられる一方で、月着陸による宇宙への夢をみた時代。学園紛争や街頭デモでの機動隊との衝突、内ゲバを繰り返す学生運動、武装闘争に走る連合赤軍、フィクサーと呼ばれる右翼の大物が入り混ざって登場する。

 本書は騒動が沈静化した1976年にメキシコで執筆されている。市民や学生の政治運動が過激化し自滅していき、多くの人が政治に絶望し離れていった時期だった。大江は小説表現を、「現実の手応えのある表現とするためには、一面的な意味をこえた、多義的な意味をあたえねばならない」と語り、『ピンチランナー調書』を喜劇として書いている。それは、カーニバル化した時代の「中心」を「周辺」から眺める道化の視点である。

 

「笑い」は現実よりも真実を伝える  

 

 『薔薇の名前』で毒を仕込んだ犯人は、その動機を、「笑いは、辛辣な謎や、予期せぬ隠喩を介して、あたかも嘘をつくかのように、現実にあるものとは異なった事象を物語ることによって、実際には、それらの事象を現実よりも正確に私たちに見つめさせるものである」と語る。「笑い」は現実よりも真実を伝える。それ故に中世の権力者は「笑い」を怖れた。

 ルネサンスの作家たちは、道化の「笑い」を通して、中世的権威の失墜と、搾取され抑圧されたきた領民や農民の覚醒を描いた。漱石は、江戸落語の滑稽な世界を描こうとしたが、「笑い」がデフォルメされた人間と社会の真実を伝えうることに気づき、彼の滑稽は文明批評に変わっていった。そして、大江健三郎は1970年代の政治運動の嘘と欺瞞と哀惜を戯画化して描いている。

 

 

 

Info   

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⊕アイキャッチ画像⊕

∈『道化の文学ールネサンスの栄光』高橋康也/中公新書

∈『吾輩は猫である』夏目漱石/岩波文庫

∈『ピンチランナー調書』大江健三郎/新潮文庫

∈「カーニバルの夜」アンリ・ルソー(1886年/フィラデルフィア美術館蔵)

⊕多読ジム Season07・夏⊕

∈選本テーマ:笑う本

∈スタジオ935(浅羽登志也冊師)

∈3冊の関係性(編集思考素):二点分岐型

                 ┌──『吾輩は猫である』

                 |

『道化の文学ールネサンスの栄光』─┤

                 |

                 └──『ピンチランナー調書』

⊕参考文献⊕

∈『薔薇の名前 上・下』ウンベルト・エーコ/東京創元社

∈『道化の民俗学』山口昌男/岩波現代文庫

∈『文化人類学への招待』山口昌男/岩波新書

∈『決定版 夏目漱石』江藤淳/新潮文庫

∈『大江健三郎 作家自身を語る』大江健三郎/新潮文庫


  • 若林信克

    編集的先達:アラン・チューリング。[離]を退院後、校長校話やイシスフェスタの文字起こしをする蔵出し隊のリーダー格を務め、多読ジム通いと愚直な鍛錬を続ける元エンジニア。ピアノの修練にも余念がなく空港ピアノデビューを狙っている。

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