【三冊筋プレス】負のエントロピーが生む想像力(小路千広)

08/28(金)15:32
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 普段の生活にはそれほど必要とは思えないが、編集学校では避けて通れないものがある。それが「生物は負のエントロピーを食べて生きている」という、生物学と物理学と哲学を重ね、合わせ、ひっくり返したような言葉の理解と使いこなしである。表面的には使えていても、その中身に対する理解は心許ないことこのうえなく、キーブックは迷わずエルヴィン・シュレーディンガーの『生命とは何か』を選んだ。

 

 1944年に出版された『生命とは何か』は、ダブリンで行った公開講演がもとになっている。話し言葉だからか、問いと解説が照応しているからか、思ったより読みやすかった。シュレーディンガーは、生物の染色体行動における物質の構造と法則に、統計熱力学やブラウン運動、分子の拡散を適用。また、突然変異が出現する遺伝のしくみを量子力学や分子結合模型を用いて、物理学的、化学的な視点から読み解き、生命の本質や進化を究明した。その結果、熱力学第二法則に照らしあわせると、物質は常にエントロピーが増大する方向(無秩序)へ動くはずなのに、生命は秩序をつくりだしていることに気づく。これが「生物は負のエントロピーを食べて生きている」という言葉になるわけだ。物理学者を志す前は詩人になりたかったという著者が、科学的根拠に基づき、想像の翼を広げて発見した理論である。

 

 負のエントロピー論は、ワトソンとクリックによるDNA二重らせん構造の発見につながるなど、ゲノム解析にいたる分子生物学の発展に大きく貢献した。

 

 ミクロからマクロへと視点を変えて生命の歴史を見わたせば、7万年前に人類の命運を分けた認知革命は、負のエントロピーを食べる生命体、ホモ・サピエンスが起こしたものだ。ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』はそうした人類の歴史を三つの革命で綴る。認知革命で言語を発明したサピエンスは、想像力を発揮して神話や伝説、しきたりなどの虚構をうちたて、見知らぬ者同士が協力し合う共同体を形成する。つづく1万2000年前の農業革命を経て、人口爆発とエリート層の誕生が起こり、貨幣・国・宗教という普遍的秩序が生まれる。さらに500年前に始まった科学革命がサピエンスの想像力をたえず刺激し、農業の工業化とともに、産業革命、運輸革命、通信革命、消費革命などあらゆる分野に変革をもたらした。

 

 一方、SF作家の想像力は宇宙と地球の未来へ向かう。1953年刊行のアーサー・C・クラークの『地球幼年期の終わり』は、東西冷戦時代の米ソ宇宙開発競争を背景に、宇宙からやってきた超知性体<上主>、オーバーロードが人類を統治し、平和や秩序と引き換えに進歩のない社会をつくりだす。100年後、宇宙全体を統合する神的存在<主上心>、オーバーマインドの指示により、それまでの人類とまったく別の精神構造をもつ超人類が生み出され、<主上心>と一体化。ホモ・サピエンスは地球とともに終焉のときを迎える。負のエントロピーを食べて生きる人類の探求心や好奇心、すなわち想像力が失われてしまったために起きた悲劇といえる。救いは、人類の遺伝子が宇宙生命に進化した超人類に受けつがれていることだ。

 

 負のエントロピーを食べて生きている人類は、生命を維持するための法則にしたがって、社会や世界の秩序をつくりだしてきた。それは、つねに無秩序へと向かうエントロピーへの挑戦のように見える。その原動力になっているのが、負のエントロピーが生む想像力といえる。人類は、もてる想像力を駆使して何を望むのだろうか。三人の作者は、それぞれの著書の中で哲学的な思索を深めている。

 

 物理学者であるシュレーディンガーは、古代インドの思想であるヴェーダンタ哲学を学び、「人と天は一致する」すなわち人間の自我は全宇宙を包括する永遠性に等しいという考えに影響を受けた。歴史学者であるハラリは、古代インドのヴィパッサナー冥想を行い、物事をあるがままに見るブッダの教えを信条としている。物理学や天文学などの知識をもつSF作家のクラークはスリランカに移住し、仏教に関心を寄せていたという。

 

 三者三様に、これまでの一神教や西洋哲学にはない考え方を、東洋の思想に見いだそうとしているのはなぜか。人類が望む幸福やあり様をターゲットにするとき、冥想や座禅によって悟りを開き真理に到る東洋的な方法が、そのプロフィールになると考えたのかもしれない。それは想像力の鍛錬ともいえる。負のエントロピーを食べて生きている私たちは、自らの方法で想像力を鍛え続けなければならないのだろう。

 

 

●3冊の本:

 『生命とは何か』エルヴィン・シュレーディンガー/岩波文庫
 『サピエンス全史』ユヴァル・ノア・ハラリ/河出書房新社
 『地球幼年期の終わり』アーサー・C・クラーク/創元SF文庫

 

●3冊の関係性(編集思考素):二点分岐型、三間連結型


  • 小路千広

    編集的先達:柿本人麻呂。自らを「言葉の脚を綺麗にみせるパンスト」だと語るプロのライター&エディター。切れ味の鋭い指南で、文章の論理破綻を見抜く。1日6000歩のウォーキングでの情報ハンティングが趣味。