【三冊筋プレス】万法すすみて時を手放す(田中優子)

2020/08/19(水)10:48
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 『正法眼蔵』から見ると『サピエンス全史』と『時の声』は同じ位相に位置し、『正法眼蔵』は別の地平に存在する。その3冊の関係を編集思考素の型のどれかにあてはめねばならないとしたら、一種合成型しかない。いやしかし・・・それなら、『正法眼蔵』は『サピエンス全史』と『時の声』の合成物? いや、そうではない。

 ここで表現したいことは2冊が合成されて別のものになる、という意味での一種合成型ではない。2冊が合成されて一挙に、全3冊から何かが「消える」ことだ。それぞれの本、あるいは読む者である私を主語にすると、2冊が出会い、私がその2冊に出会い、私とその2冊が『正法眼蔵』に出会った瞬間に私と2冊は、内包していたあるキー概念を一気に「手放す」ことになったのである。そこでこれを「一種手放し型」と呼び直したい。そしてそのキー概念とは「時」である。

 

 『サピエンス全史』は、虚構を作ることで人類は人類となった、と語る。個々人が虚構を単に想像するだけではなく、集団で想像できるようになった、とも語る。その協力体制が人類社会を作ったわけだが、その力は、人々の「集合的想像の中にのみ存在する共通の神話」に根差している、という。共通の神、神話的な祖先、つまり共通の起源という虚構の創造である。「認知革命は歴史が生物学から独立を宣言した時点だ」という重要な指摘をしているが、歴史とはすなわち時間を一方向に流れる1本の線のようなものと想定し、そこに因果関係を置いて行った作業であろう。今この瞬間を生きる生き物としての自己ではなく、起源をもち歴史をもった自己の集まりとなった人類は、植物に家畜化されて農業を興こし、動物を家畜化した。

 「家畜」は、本書の重要なキーワードだ。家畜とは何か。ただの生き物ではない。生きる時間を支配された生き物である。農業生産は人間の生活時間を支配する。人間は動物を育てて適当な時期にその乳を飲み、適当な時期に殺してその肉を喰らう。仏教は外部の成果の追求だけでなく内なる感情の追求をもやめることを教えた、とハラリは認識している。そうであるなら、内なる時間の追求を手放す、という発想まであと一歩だった。

 

 『時の声』における「時間」は、地球形成の時間であり、全宇宙形成の時間である。「時間への無益な執着」「時の回廊」「時の天蓋」「時の歌」と、宇宙の時間はこの作品の隅々にまで満ち、しかし、それが少なくなっていってやがて消えることがわかっている。消えるまでの「秒読み」のサインは、「体のどの部分をとってみても、どんな砂粒にも、どんな島宇宙にも」刻みこまれている、というのだ。時間が消えてゆく恐怖。人は眠りはじめ、覚醒している時間も日々短くなっていく。その書き方は、時間というものがこの作品においては「意識」のある間を意味するものだということだ。

 神経外科医のパワーズは天文学者のコールドレンの視床下部を手術して眠らない人間にした。それはコールドレンが自分の時間を確保したかったからに違いない。しかしその結果は、消滅への秒読みを宇宙から受け取っただけだった。生物学者のホイットビーは沈黙の遺伝子を目覚めさて進化を試すが、それは生き延びる結果になるどころか、生き物たちの自己破滅しかもたらさなかった。つまり、この作品は時間への執着と失望に満ちている。

 しかし、最後の荘厳と美しさはなにゆえか?その理由は、この作品が最初から最後まで「死」を書いているからだ。すべてのものに死が刻印され、宇宙も例外ではない。「時の声があなたに別れを告げている」という言葉はこの小説のテーマそのもので、その声に包まれ音に救い取られてパワーズの死がやってくる。それは全人類の死が同じように宇宙の時の声に包まれて死に絶えることを予感させる。

 

 この2つの作品は双方とも「起源と歴史」に注目している。それは「時間が作り出した存在」への注視である。それらの注視、注目は、執着と読み替えてもよい。かたや人類史、かたや宇宙史であるが、どちらも「時間」がテーマなのだ。その人類史と宇宙史を二つの「一種」とする。そこで、その二つが合体して「手放し」に移行する。

 『正法眼蔵』は時間について「時すでにこれ有なり、有はみな時なり」と書く。「尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時時なり、有時なるによりて吾有時なり」と。「つらなりながら時時なり」がすごい。「時」という概念は実在と同じ意味なのだ。つまり「有」とは「時」であり、「無」は時のない世界つまり「死」なのである。ところで死について『正法眼蔵』は「生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり」と書く。位相が違う。時間で連続してはいない。まったく別の世界だ、と言っている。

 そこで分かった。『サピエンス史』は生の位相から、人類が生き残るために創造してきた虚構について書いている。『時の声』は死の位相に入りこんで、生から死への執着と諦念と憧憬を書いている。そこで、その両方の執着を「手放す」ためには、『正法眼蔵』が必要となる。生と死を「一種」として、どちらも手放す方法がそこにある。

 

 そこで新たに現われるキーワードが「万法」だ。「自己をはこびて万法を修証するを迷とす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり」とある。時間にとらわれている人間は、そのような自分に居座ったまま、全宇宙の動き方である「万法」を理解しようとする。しかしそれは無理。万法の側からやってくる、つまりそちらの側から自己を見るしかないのだ。そして、自己が「万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」ということになる。

 『正法眼蔵』はその脱落(大悟)に至るもっとも近道で正しい方法を伝える書であった。その方法とは坐禅だ。今、ここにいる自分を、その姿そのままでくぎ付けにするのが坐禅だ。今存在していることがそのまま「時」なので、実は過去もない。未来もない。歴史もない。今生きているなら「死」すら、そこには無い。つまりそれらについて考える必要はない。坐禅以外に人類が時間から解放される方法はない、と言っている。

 

 というわけで、『サピエンス全史』と『時の声』は『正法眼蔵』の提唱する方法で時間をようやく手放すことができるかもしれない。ハラリは瞑想を日常化しているようだ。バラードが瞑想や坐禅をしているかどうか知らないが、「死」が常に頭の片隅にある。手放すまであと一歩だ。一人ひとりの自己が変わらなければ世界は変わらない。だからこそ坐禅の「実践」が必須だと、道元は言う。

 ここまで来て、道元の発信の仕方が松岡正剛と重なった。論理や概念を言葉で言いつのることが重要なのではなく、ひとりひとりに実践の方法を伝えることが、人間を変え、世界を変えることだ、と確信している点である。

 

●3冊の本:

 『正法眼蔵』道元/永平寺
 『サピエンス全史』ユヴァル・ノア・ハラリ/河出書房新社
 『時の声』J.G.バラード/東京創元社

 

●3冊の関係性(編集思考素):一種合成型

 

 

 

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  • 金 宗 代 QUIM JONG DAE

    編集的先達:水木しげる
    セイゴオ師匠の編集芸に憧れて、イシス編集学校、編集工学研究所の様々なメディエーション・プロジェクトに参画。ポップでパンクな「サブカルズ」の動向に目を光らせる。
    photo: yukari goto