【多読SP】大澤真幸賞受賞作全文掲載(梅澤光由)

2021/12/22(水)10:05
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多読ジムSPコース「大澤真幸を読む」の読了式で【冊匠賞】【多読ボード賞】【大澤真幸賞】の受賞者が発表された。冊匠賞は林愛さん、多読ボード賞は猪貝克浩さん、大澤真幸賞は梅澤光由さんが受賞した。特別賞三賞の読創文は遊刊エディストで順次、全文掲載する。

 

父なる救済 母なる触癒 未来の他者と連帯する方法知(梅澤光由)

◉目 次◉

 

第1章:世界観の複雑骨折ー地と図のズレ

1.1 目眩ー液状化する近代、迷宮化する世界
1.2 平衡感覚障害ー社会関係資本の減少、自尊心の摩耗
1.3 死の受容ー解決不能な問題、絶望な国の幸福な若者たち
1.4 「幸福」の当て木で隠蔽するか 治療法を探しにいくか

 

第2章:イエス・キリストー矛盾の極致としての宗教エンジン

2.1 個はいかにして普遍へと導かれるかー個体の不確定性
2.2 ふれる/さわるー求心化ー遠心化作用
2.3 死体という社会的紐帯
2.4 煉獄の誕生

 

第3章:「未来の他者」の声を聞くー大澤真幸という方法

3.1 骨太な中世ーキリストは万能薬?
3.2 未来の他者の声を聞く
3.3 未来の他者を召喚する活路

 

第4章:父なるものの救済か 母なるものの触癒か

4.1 大澤真幸のマスター・プログラム/編集工学のマザー・プラン
4.2 未分化な世界へ
4.3 苗代という方法

 

 

第1章:世界観の複雑骨折ー地と図のズレ

 

1.1 目眩ー液状化する近代、迷宮化する世界

 世界観の複雑骨折を自覚し始めたのは、厳冬下の闘読の日々からだ。大学入学後一人暮らしを始めた私は、教育システムから与えられる知を効率よく吸収するだけの日々を抜け、自ら選んだ社会科学書を連夜耽読するようになった。すると、客観的、論理的、理性的に考えるほど、薄々勘づいていた社会の閉塞感の正体が見えてきて、気持ち悪い感覚に襲われるようになる。我々が生きている世界を地とし、自己を図とするならば、地と図の間に大きな溝ができている感覚、地から図が遊離してしまったようなあてどない感覚である。私は現代社会を生きる者達皆がこのズレに悩まされているのではないかと考える。
 地と図のズレは三つの要因によって拡大される。一つ目は世界の過度な複雑化による目眩である。変動相場制に移行し、冷戦構造が瓦解して久しいが、資本移動の自由化は加速の一途を辿っており、国家間の経済依存度は増している。実体経済から離れた金融経済ばかりが乱高下し、参与できない海の向こうの出来事が市民の生活を脅かす。また、情報技術が発達することで、多くの人が常時情報ネットワークと接続できるようになり、情報の流通速度も飛躍的に上昇した。マスメディアによって一方的に情報を放流していた時代と異なり、双方向に意見が交わされ、世界大の井戸端会議ができるようになってしまった。フェイクニュースはその象徴である。世界の複雑性が引き起こす目眩によって、多くの人は地がなんなのかわからなくなっている。
 かつては宗教や物語がこの目眩を直すメガネであった。古代ー中世では宗教が世界とは何かを、人間はどう生きるべきかを示してくれた。戦後まもない日本であれば戦後民主主義という理念で国民的な社会が目指す姿を掴むことができた。サラリーマンなら高度経済成長や家族的経営企業を使って、自分の生きている世界を普遍として対象化したり概念化することができた。しかしかつてないほど複雑性は増大し、ポストモダニストは物語を壊すことばかり考えてきたため、この目眩を直すお手軽な方法として疑似科学やサロンビジネス、排外主義的言説を希求する向きが日本でも世界でも流行している。

 

1.2 平衡感覚障害ー社会関係資本の減少、自尊心の摩耗

 複雑性の増大に比例して、社会関係資本も減少している。村落共同体を基礎としていた日本は、明治以降近代化の過程で社会の流動性を高め、都市部へ労働力を集約してきた。村落共同体の代わりにアトム化した人々を束ねたのは精神的共同体としての国民国家概念と、日本的経営がなされていた企業の擬似家族概念であった。しかし資本移動の自由化によって社会環境の複雑性と流動化が加速している今、個人の負担を軽減してきた国家や市場や企業が不安定になり、共同体が空洞化してきている。松岡正剛の千夜千冊1237夜『コミュニティ』ジグムント・バウマンにある通り、流動化する近代はコミュニティに属さないことこそがクールだともて囃すまでになった。その結果期待されるロールや価値を交換するビジネス的紐帯ばかりが残るようになり、親密圏における合理性を超えた前近代的な紐帯は急速に減少してきている。
 社会関係資本の欠如は共同体への帰属意識の低下や他者の承認不足をも呼び起こし、自分自身の生命や尊厳の軽視にもつながっている。「生きている価値がない(≒社会の役に立たない)者は消去してもよい」という人権を無視した思想は、主語を自己に置けば自殺につながり、他者に置けば「無敵の人」によるテロ事件につながる。世界=地が目眩で見えない上、他者との連帯が希薄化するならば、地に自己=図が接地している平衡感覚もなくなる。先進国一高い自殺率、孤独死、無縁死、乳幼児虐待問題などは、精神の三半規管がダメージを受けている証拠である。

 

1.3 死の受容ー解決不能な問題、絶望な国の幸福な若者たち

 目眩と平衡感覚障害にとどめを刺すかのごとく現代社会を覆うのが、千夜千冊『資本主義の文化的矛盾』ダニエル・ベルの千夜にある七つの問題の筆頭=解決不能な問題ばかりが問題となる状況である。地球環境保全、原発、コロナなどの大問題は、人類が普遍的連帯を成就しない限り克服不可能であることは周知の事実である。しかし大国間では責任の押し付け合いや戦争が生じていたり、一国内でも対立が解消した試しはない。世界が複雑すぎるからか、国家としての目眩を直す物語メガネがないからか、議会制民主主義は課題の解決には向かわず、システムを維持するための議会を開き続けている。
 古市が「絶望の国の幸福な若者たち」と名づけた現象を元に、大澤は日本の若者がこの袋小路に呼応しているのではないかと仮説する。近年の日本の世論調査では若者の幸福度は高い傾向にある。ところでこの世論調査では高齢になるにつれ満足度が上がっていく傾向がかねてより確認されている。人生の残り時間が少なくなるにつれ、自身の人生を振り返って正当化するため満足度が高くなると仮説されるが、解決不可能な問題ばかりが問題化する世の中に未来はないという絶望を感じる現代の若者は、この高齢者と同じ精神状況に立たされていると言えるのではないか。高齢者と同じ境地に立つ若者たちは、健康な体を有しながら、精神的にはゆっくりと死の受容へと近づいているのである。

 

1.4 「幸福」の当て木で隠蔽するか 治療法を探しにいくか

 目眩+平衡感覚障害+死の受容。現代人は自分入りの世界観を複雑骨折させながらかろうじて生きている。しかし無意識の防衛本能からか、若者達はあたかも地(世界)と図(自己)のズレなどなかったかのように「幸福」で糊塗した笑顔で今日も就活や自分探しに邁進している。いや、日経新聞の切り抜きのようなスピーチしかできない大企業の重役がゴマンといるのも同根だ。若き頃感じていた地と図のズレが忘却されているからこそ、紋切り型な思想を鵜呑みにしても平気なふりをして生きていられる。目眩に襲われ三半規管を狂わせてきた私はしかし、複雑骨折の痛みを隠して生きていくことがいまだにできない。ズレとは単なる勘違いだったりもするが、この地と図のズレとは何かもっと大事なズレなのではないだろうか。精神的死を受容できるほど人間として成熟もしていない私は、絶対不可能とも思えるこの状況下で、それでも地と図のズレを安易な形ではないやり方で編集することはできないかと探している。言い換えれば普遍と個を接続する方法の探究だ。大澤は中世西欧社会の中からキリスト教に宿る普遍と個をつなぐ方法知を析出する。さらに、その方法知を現代社会の診断と処方箋のための社会学的方法知にまで転化した。そのプロセスと共に、さらにこれを編集工学で延伸し、この絶望的複雑骨折の治療法を探しにい
く。

エドワード・バーン・ジョーンズ『テセウスとミノタウロスの迷宮』
https://en.wikipedia.org/wiki/Labyrinth#/media/File:Edward_Burne-Jones_-_Tile_Design_-_Theseus_and_the_Minotaur_in_the_Labyrinth_-_Google_Art_Project.jpg

 

 

第2章:イエス・キリストー矛盾の極致としての宗教エンジン

 

2.1 個はいかにして普遍へと導かれるかー個体の不確定性

 中世西欧とは、カトリックが全生活領域に浸透した時代であった。キリスト教カトリックの本質は、「聖霊は父と子から発する」という意味のフィリオクエ(filioque)にある。この言葉は普遍的で超越的なる神が、有限な命と具体的な肉体を持ったイエスという形でこの世界に降り立ったことを意味する。父にして子、普遍的であり個別的という完全に矛盾したこの概念が、哲学的深化の果てにあらゆるメディアの乗り換え編集を成し遂げることで、中世西欧社会は発展した。
 フィリオクエの意味を言語哲学的に再解釈したのが、ドゥンス=スコトゥスの「このもの性」をめぐる現代の議論である。スコトゥスは、固有名詞は確定記述(Aは会社員である、など名詞の属性や性質の記述)をいくら連ねても、固有名詞を十全には表現できないと考えた。いかなる確定記述も反実仮想を想定できてしまうからだ。すなわち、確定記述にはその個体の性質に対応するような普遍概念が含まれるが、固有名とはいかなる普遍の規定をもすり抜けてしまう差異のひしめき合いであり、物理的指差しによる規定が不可欠なのである。これを個体の不確定性と名付けるならば、世界史における不確定性の極大値こそイエス・キリストであった。普遍にして個体という完全なる矛盾を抱えたイエスは、個体の個体性、単一性さえも不確定化し、否定にまで行き着く。イエスは個体が同一であるのか他であるのかすら決定不可能な歴史上唯一の存在であった。ここに、個が普遍へと接続される神学的・哲学的可能性が開かれた。

 

2.2 ふれる/さわるー求心化ー遠心化作用

 この普遍と個の境界編集力の内に、社会学的分析視角として求心化ー遠心化理論を大澤は見出した。この理論を他者との連帯において見出すため、「ふれる」と「さわる」の違いに着目したい。痴漢が他者に接触する行為は「さわる」に該当するが、これは他者をモノとして扱い、自己の欲望に基づき自己との同一化を図る暴力である。能動的に手を伸ばす者のこの行為には他者や世界を自己のうちに取り込もうとする求心化作用が働いている。一方、母親が泣いている我が子の頭に接触することは「ふれる」に該当する。ここには自ら能動的に接触を求める求心化作用が働いている一方、完全なる自己同一化は達成されない。なぜなら、「ふれる」には他者を自己とは異なる自立した命として尊重し、慈しむ態度が前提されているためだ。求心化作用の過剰は「ふれる」が「さわる」に転化する契機となり、他者をモノ化する。ふれられながら他者が主体性を維持するためには、ふれる者の同一化の力場から脱出する斥力を発揮する必要がある。これが遠心化作用である。「ふれる」が成立するとき、求心化作用と遠心化作用は同時に働いている。

 

2.3 死体という社会的紐帯

 患部にふれて病を治癒したイエスは、死体になっても求心化ー遠心化作用を発揮し続けた。
 中世西欧では聖人が氾濫する。聖人は神にとりなしをしてくれると考えられていたからである。中世都市の中央には教会が、教会の中央には聖人の遺体が安置された。その聖人を崇める一般市民の自発的な結社である兄弟団も結成され、成員は組織的に相互扶助や葬式などの宗教行為を行なった。聖人の遺体や聖遺物はキリストの擬似身体≒死体として機能した。これは求心化ー遠心化作用によって個が普遍へと接続されていくキリスト教の理論が現実の社会過程として出現したことを意味する。普遍そのものであり完全なる神は、世界を創造したあとその外部へと退場なさった。不完全な存在である人間は、いかなる努力をしても神にふれることはできない。人類は受肉したイエスという存在が世界史に登場することで、初めて神と接続する回路を確保できた。しかしイエスは磔刑に処せられ、それ以降この世から存在を消した。ゆえに中世では具体的
な死体が要求されたのである。神にして人間、普遍にして個という両義性を行ったり来たりできるイコンこそ”死に続ける死体”であり、死体の放つ求心化ー遠心化作用によって人々は連帯した。
 ある社会集団の規範を生成したり、その規範の妥当性を担保する超越的な他者のことを、大澤は「第三者の審級」と表現する。死してもなお求心化ー遠心化作用を発揮し続け、多くの人々を連帯させたイエス・キリストの擬似身体は、まさしく第三者の審級として機能していた。

 

2.4 煉獄の誕生

 キリスト教が純化し、中世社会に浸透した結果、古今東西で重罪とされた高利貸しの意味までも変質した。彼らは貸付をして返済されるまでの時間を売って金に換えている。高利貸しが重罪なのは、神の持ち物である時間を奪い金儲けをしているからだ。この時間の概念を変更したのが煉獄であった。
 キリスト教の時間は世界創造の日から終末まで直線に流れているが、天国と地獄どちらに行けるかは最後の審判で初めて判明する。そして、人生における様々な行為がどのように最後の審判の判決材料として使われるのかは生きている間にはわからない。生前は「こういう行為をして私は天国/地獄に行くかもしれない」という偶然性ばかりが漂っているだけである。それが最後の審判が確定した後は「思い返せば私の人生は地獄行きと判断するに十分な行為ばかりだった」と自分の運命は必然的なるもののように思えてしまう。最後の審判は偶然を必然に転化させる装置である。
 煉獄とは最後の審判に至るまでの間にとどまる中間的な地獄の擬であり、ここで贖罪を果たせば最後の審判で無罪を勝ち取り天国に行ける敗者復活戦の場であった。贖罪は現世に生きる親族の献身=愛によって肩代わりすることもできた。完璧なる無罪か死刑の二択しかないような一発勝負のワールドモデルに煉獄が誕生することで、重罪人であった高利貸しにも、利子で儲けながら天国へ行ける道が開かれたのである。
 ところで「煉獄で焦っている人」とはどのような意味を持つのだろうか。この者は自分が何もしなければ最後の審判に地獄に行くことがすでにわかっている。だからこそ、最後の審判が来るまでに労役のように贖罪を果たし(あるいは遺族の献身を必死に願い)天国へ行けるようにと焦るのである。つまり煉獄の導入は、最後の審判の先取りとも見える。

ルドヴィコ・カラッチ『煉獄』
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Carracci-Purgatory.jpg

 

 

第3章:「未来の他者」の声を聞くー大澤真幸という方法

 

3.1 骨太な中世ーキリストは万能薬?

 中世西欧社会の観察から大澤の方法知が析出できたところで、再び現代に視点を戻す。我々の問題は、世界の複雑性からくる目眩、共同体の空洞化からくる平衡感覚障害、そして絶望ゆえ幸福を感じてしまう死の受容をどう乗り越えていくかであった。中世西欧社会では、これらの悩みはなかったものと思われる。中世ではイエス・キリストが個体の不確定性の極大値であるがゆえ、個人を普遍≒世界へと接続する触媒として機能した。ゆえに世界の複雑性からくる目眩はなかった。共同体の空洞化は?理念的に普遍≒世界に接続できたとしても、日常生活の中でも地との接地感覚が掴める必要がある。キリストの象徴たる死体や聖遺物は、兄弟団や教会といった共同体を生み出し、帰属を促した。共同体に所属することで、世界との接地感覚は充足された。ならば未来に対する絶望は?最後の審判という未来の瞬間に、天国か地獄かの極端な二択を迫られていた市民は、煉獄の誕生によって、努力をすることで報われる世界像を手にいれた。
 しかし世俗化が進み非西欧地域である日本で、中世のようにカトリックを信仰して生きていくことは困難である。信仰の伝統や歴史がない上、これほど脱魔術化が進んだ現代では、空の上にいる神と平たい地球に立つ我々という世界像を素朴に信じることは難しい。大澤は中世西欧社会から析出したキリスト教の方法知を社会学的に再編集して、現代社会の病理診断と処方箋に活用する。そのために遠近法的錯覚と余剰的同一性、そして未来の他者という概念を導入する。

 

3.2 未来の他者の声を聞く

 第1章で私は、コロナや原発など解決不能な問題ばかりが問題化していると述べた。大澤はこのような状況を打開するため、未来の他者の声を聞くという方法を提唱する。未来の他者との連帯とはライプニッツにあやかって「自分の住まない家を建てる」感覚と呼べる。もし現在を生きる我々が未来の他者の息遣いを隣人のように感じることができたなら。きっと彼らが政治共同体の勘定に入れられ、環境保全のための政治決定がなされ、国民国家を超えた協調体制が築かれるはずだ。個人レベルでも、大気変動というスケールの大きい話を、顔馴染みの知人に協力するような感覚で捉えることができるはず。大澤は遠近法的錯覚と余剰的同一性の概念を導入することで未来の他者との連帯が達成されると考える。
 遠近法的錯覚は、偶然を必然に変える最後の審判と同じ機能を持つ。歴史上の特異点たる出来事の意味を、未来から遡及的に意味付ける感覚である。福島第一原発の事故は、低い防波堤、原発機種に内在するリスク、事故後の停止措置の遅滞など、複数の要因が連鎖して生じたものであった。事故が起きた後を生きている我々は「なぜより高い防波堤を当時作らなかったのか」と事故要因を必然的なるもののように感じているが、それは未来の視点から過去の原発建設を眺めている遠近法的錯覚の作用である。建設当時そのようなリスクは偶然的なる可能性の一つに過ぎなかった。当時の現場が事故を必然的なるものと感じていたのならば、高い防波堤はとっくの昔にできていたはずだ。
 未来から遡及的に意味づけされる予定の事柄で、かつ、現在地点においては目先の何か以上のことをやっているものの言語化できない感覚が余剰的同一性である。事故発生より未来に生きている我々は、低い防波堤が必然的な事故要因であると見えているが、当時の人間はそれを自覚していないため、漠然たる不安としてしか感知しえない。「国家や電力会社はコストとリスクを天秤にかけ意思決定をしたが、ひょっとして、この程度の工事ではとてつもない危険が呼び起こされてしまうのではないか」という漠然たる不安である。
 言語化できない不安を感じることは、未来の他者のささやきと捉えることができる。偶然が必然化した現代に生きる我々が過去の原発現場に去来していただろう「漠然たる不安」を想定できるということは、現在の我々の不安もまた、未来の他者から遡及的にかけられた声なのかもしれない。このように、現在ー過去の間で想像される関係性を未来ー現在にアナロジーすることで、未来の他者との連帯が可能になると大澤は考察する。

 

3.3 未来の他者を召喚する活路

 大澤は未来の他者との連帯に向けて、いくつかの可能性を発見/提案している。例えば余剰的同一性はオタクに見出せる。オタクは一般的に鉄道やアニメなど個別的な趣味に没頭し、社会と没交渉的な態度を取る人々とされるが、大澤はむしろ、オタクにとっては個別的な趣味に普遍的な世界が内面化されていると仮説する。東浩紀のデータベース消費概念は、任意の物語をその内部に含み、任意の物語や世界観をそこからの派生物としてみなすメタ物語である。猫耳に夢中になるオタクの嗜癖は、普遍的な物語の収蔵庫への欲望なのだ。我々は複雑化する世界の中で目眩を抱えて生きている。普遍的なるものを対象化して把握することは不可能だ。個別的趣味に普遍的世界が内面化されていると仮定するならば、偏愛活動の中で普遍の面影を感じながらも「今見えている世界が全て=普遍ではない」という残余の感覚がオタクにはあるはずである。この残余感覚こそが余剰的同一性なのである。個の内に普遍を期待するという矛盾が求心化ー遠心化作用を働き、残余感覚をもたらす。これは、イエス・キリストによって個が普遍へと接続されるロジックと相似形である。データベースを父なる神、目に見えるアニメ作品やキャラをイエス・キリストになぞらえれば、兄弟団は巨大な同人サークルという連帯に、定期的に開催されるコミケは祝祭に、ビッグサイトは教会に見立てられる。
 大澤は煉獄のように最後の審判を先取りし遠近法的錯覚を起こす社会制度「特異な社会契約」も提案している。社会の成員たる個人Aが共同体としてのなすべき政策案、例えば原発廃止案を持っているとして、意思決定機関(委員会)の承認を得られれば、それは個人の意思ではなく共同体の意思として扱われるようになる。しかし個人Aは委員会と直接話し合うことはできず、媒介者Mに自分のアイディアを伝え、Mが委員会にAの意見を代打で伝える必要がある。このときMはAへ反論してはならず、正確に意見を伝えるための確認の質問のみが許される。その代わり正確性を担保するため質問には容赦がない。
 Aの原発廃止案が委員会の決定を通過した場合、それはすでに決定されたもの=必然的なるものとして発布される。委員会は第三者であり、発布とは審級である。AがMに自分の意見を説明し、Mの確認質問を受けているとき、「あれか/これか」の偶有性の中にいるMに対し「これ」である必然性をAは説かなくてはならない。実はここでA自身もまた偶有性の中に揺り戻されているのだ。確実に第三者の審級として働く委員会がMの後ろに控えつつ、Mがいるおかげで委員会は必然的なる判断を保留させられている。ここに求心化ー遠心化作用が働くことで、最後の審判の先取りと同じ状態に置かれるのである。つまりMが煉獄の役割を果たしているのである。
 オタクのような余剰的同一性の感得、特異な社会契約のような遠近法的錯覚の先取りなどの工夫をすれば、未来の他者との連帯が可能となる。そうなれば、未来の他者の利益のため普遍的連帯が達成され、解決不能な問題も解決し、普遍と個を接続する現代的回路が生まれるはず。未来の他者との連帯の実現は、三つの宿痾から生じた世界観の複雑骨折を治癒できるイエス・キリストの再来なのである。

 

 

第4章:父なるものの救済か 母なるものの触癒か

 

4.1 大澤真幸のマスター・プログラム/編集工学のマザー・プラン

 しかし、だ。これで我々の複雑骨折は本当に全快するのだろうか。私の目には二つのつまずきの石が見えている。
 一つ目。普遍的なるものを希求する態度が逆説的に特殊なものへの偏愛に現れた例がオタクであると大澤は分析した。つまり単純な「好き」ではなくオタク的な偏愛を持つことが、余剰的同一性を感得することにつながる。ただし偏愛や執着というものは誰もが意図して持てるようなものではなく、社会制度として外部から規定しながら促すことができるものでもない。
 二つ目。過去ー現在の関係を現在ー未来へと照射できる前提があるから未来の他者との連帯が可能になるわけだが、ここには超時間的アナロジーという高度な倫理や理性的概念操作が必要になる。確かに大澤は「特異な社会契約」を提起し、ルールによる実現可能性を案出している。しかし社会実装とは時間的経済的コストが大きく、理念的な水準にとどまる大澤の提言を現実化するには未だハードルは高い。
 とはいえ、未来の他者との連帯を諦めている場合ではない。我々は複雑骨折の痛みにすでに慟哭し、解決不能な問題たちは我々の首を確実に締め潰しにきている。まだ見ぬ新制度を作るより、すでにこの世に生じているオタクという現象をさらに拡張することで、未来の他者との連帯を達成することはできないか。そこで私は、大澤の概念装置に編集工学を溶接したい。

 

4.2 未分化な世界へ

 そもそもキリスト教が父権主義を前面に出した世界宗教であるため、大澤の方法知にも父的なるものの性質が継承されている。中世西欧社会の発達もオタクの構造も未来の他者との連帯も、第三者の審級による規範生成のプロセスという面が共通しているが、これらはまさしくキリスト教的ロジックで記述されている。ここで「第三者」は父権的な性格を帯びている。父権的性格とは、コスモス的、ポリス的、ロゴス的とも言い換えられ、分析的で分化や体系化を志向する態度が含まれる。大澤はポリス的なるものの純粋培養のようなハーバーマスを批判しながら「特異な社会契約」を提案しているが、ロゴスによる概念析出とロジックによる説得を期待する点で、ポリス的性質を残した提言だ。契約や議会というシステム自体もまた、ポリス的なるものでもある。
 父的なる性質の課題に対し、母的なる方法知=編集術をあてがうことで、未来の他者との連帯を可能にできないだろうか。母的なるものはカオス的、オイコス的、イメージ的なるものであり、未分化な状態を志向する。その鍵は幼な心にある。
 アガンベンは幼な心をインファンティアと表現し、「未だ言語活動を持たざる状態」とした。すこぶるイメージ的である。大人が犬と猫と狸を識別できるのは(経験もさることながら)言語によって区別しているからである。しかし幼児にとっては全てけむくじゃらで動く何かであり、みんな”トトロ”の一味に過ぎない。この幼な心は「見えない連携」を発見する「暗黙知」と通底している。
 ポランニーは、我々の知識は言語的作用によって分節化されて構築されているが、分節化の間にこぼれ落ちている知というものもあり、この潜在性に出入りすることこそが暗黙知や創発の意味なのではないかと述べた。であるならば、子供は見えない連携を発見する天才である。大人にとって知らないことは存在しないものである。コロナウイルスや原発事故など、時代の危機は名付けられていないもの=概念化されていない未知のものとして到来するがゆえ、大人は狼狽しその都度思想の再構築を要求される。子供たちはたとえ言葉が届かないものであろうとも「見えない連携」を発見しあらゆる観念の連続を認識するための糸口を見つけることができる。未分化な世界で生きる者にとって、既知も、未知も、無知なるものすら、”トトロ”のしわざなのだ。
 大澤の余剰的同一性とは、編集工学で言う別様の可能性に近い。どちらも現在における「他の可能性」への予感を表している。大澤は最後の審判を先取りするかのような工夫で余剰的同一性を呼び起こそうとするが、それはロゴス的操作を加え人類を前進させていく発想に基づく。一方編集工学は、幼な心に戻っていくことによって見えない連携を呼び起こし、「他の可能性」を視界に入れようとする。オタク的な余剰的同一性の感得は誰もができることではないが、幼な心は全人類が通過してきた道である。理性によって新たな道を開拓することから、来た道にあったはずの偶有性を拾うために幼な心へかえる。子供の頃一度はビー玉のキラキラやフリルの数が気になったように、幼な心の水準における断片的なるものへの執着や偏愛を呼び起こすことは、オタク的な偏愛のやり方以上に拡張性・移植性が高いのではなかろうか。

 

4.3 苗代という方法

 では未来の他者の声を聞くことの困難はどうか。超時間的なアナロジーもまた、ロゴス的操作が必要な理性的アイディアである。このアイディアの困難な点は、現在を生きている我々の漠然たる不安や残余の感覚が、未来の他者からの声なのか、第1章で見た目眩や平衡感覚障害のような地と図のズレからくる不安なのかが判別がつかない点である。確かに残余の感覚があるからこそオタクは徒党を組むし、不安があるからこそ一般的には未来のための予防策が講じられる。しかし未来の他者からの声を聞くことは私には高度な倫理を要求するものであり、自己保存という本能的即物的な衝動からくる不安と区別がつかないのではないかと思われる。
 ここに接ぎ木したいのは、苗代という方法すなわちジャパン・マザーである。日本ではいったん蒔いた種を「苗」にして、それを再び田植えで移し替えるという方法をとっていた。仮の場所に種をまき、うつしかえる。これが「依代」や「物実」といった考え方のルーツにもなったが、このような苗代という考え方を社会にも適用する。文明のレベルで言えば、中国の漢字を輸入したとき、文字を流用せず、部分を使ってカタカナを作ったり一部を崩してひらがなを作って日本語としたことなどが、苗代という方法の例となるだろう。大澤のアイディアは最後の審判を今すでに通過してしまった後のように、今この瞬間に召喚するような方法である。それはキリスト教的な考え方を直接的に転用して案出されたものであるが、外来であるキリスト教的な考え方をいったん幼若な苗にして、それから本番へ植え替えるような方法があっても良いのではないか。超時間的アナロジーはキリスト教的時間観の基本である直線的時間を前提とするが、同じ発想を日本という地で置き換え円環的時間の上に置くことで、未来の他者を隣人として、いや、ご近所さんとして感じることができるようになるかもしれない。
 未来の他者との連帯を、ユニバーサルなルールや価値観で達成しようとする大澤の方法に対し、ローカルな方法がありうるのではないか、土着的な編集による、各国各地域の文化による達成の方法があるのではないか。苗代という方法を提唱した目的は、ここにある。
 未来の他者との連帯の段になって、私は大澤の方法知によって導出された治療案にひっかかりを感じた。大澤はここまで求心化ー遠心化理論を使って中世にも現代にも痛快なテオリアを繰り出してきた。そして未来のプラクシスの提言へさしかかる瞬間、私の読指に求心化作用がせり出す感覚、未来の他者に向かって「さわる」感覚が去来した。すなわち高度な倫理や、複雑なロゴス的操作を要求する感覚である。ここでふたたび「ふれる」に戻りたい。怪我に泣く子供に母親が「ふれる」がごとく。大澤真幸という方法にマザー・タイプや方法日本を溶接することこそ、世界観の複雑骨折の抜本治療になるはずだ。嗚呼、学生時代から私の胸に去来する「地と図のズレを編集したい」という叫びは、未来の他者からの声だったのか。

アントワーヌ・ヴァトー『ケレス』
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ceres_by_Antoine_Watteau_(1717-1718).jpg

 

 

Info


⊕多読ジムSPコース「大澤真幸を読む」⊕
∈課題図書:『<世界史>の哲学 中世篇』講談社
∈スタジオ★そらの孔(加藤めぐみ冊師)

 

⊕参考文献⊕
∈J.ハーバーマス(1979)『晩期資本主義における正統化の諸問題』岩波現代選書
∈N.ルーマン(1990)『信頼』勁草書房
∈Z.バウマン(2001)『リキッド・モダニティ―液状化する社会』大月書店
∈浅野智彦(2011)『趣味縁からはじまる社会参加』岩波書店
∈伊藤亜紗(2020)『手の倫理』講談社選書メチエ
∈稲垣久和, 大澤真幸(2018)『キリスト教と近代の迷宮』春秋社
∈大澤真幸(2008)『不可能性の時代』岩波新書
∈大澤真幸(2012)『夢よりも深い覚醒へ』岩波新書
∈大澤真幸(2013)『<未来>との連帯は可能である。しかし、どのような意味で?』弦書房
∈大澤真幸(2017)『考えるということ』河出文庫
∈大澤真幸(2018)『〈自由〉の条件』講談社文芸文庫
∈大澤真幸(2019)『社会学史』講談社現代新書
∈大澤真幸(2021)『新世紀のコミュニズムへー資本主義の内からの脱出』NHK出版新書
∈橋爪大三郎, 大澤真幸(2011)『ふしぎなキリスト教』講談社現代新書
∈古市憲寿(2011)『絶望の国の幸福な若者たち』講談社
∈松岡正剛編(1978)『遊 相似律』工作舎
∈松岡正剛(2005)『フラジャイル 弱さからの出発』ちくま学芸文庫
∈松岡正剛(2007)『世界と日本の間違い』春秋社
∈松岡正剛(2019)『千夜千冊エディション 編集力』角川ソフィア文庫
∈宮台真司(2011)『宮台教授の就活原論』太田出版

 

⊕参考千夜⊕
∈0475夜 『資本主義の文化的矛盾』 ダニエル・ベル
∈1012夜 『迷宮としての世界』 グスタフ・ルネ・ホッケ
∈1026夜 『母権制』 ヨハン・ヤコプ・バハオーフェン
∈1042夜 『暗黙知の次元』 マイケル・ポランニー
∈1084夜 『帝国的ナショナリズム』大澤真幸
∈1237夜 『コミュニティ』ジグムント・バウマン
∈1324夜 『スタンツェ』 ジュルジョ・アガンベン


  • エディスト編集部

    編集的先達:松岡正剛
    「あいだのコミュニケーター」松原朋子、「進化するMr.オネスティ」上杉公志、「職人肌のレモンガール」梅澤奈央、「レディ・フォト&スーパーマネジャー」後藤由加里、「国語するイシスの至宝」川野貴志、「天性のメディアスター」金宗代副編集長、「諧謔と変節の必殺仕掛人」吉村堅樹編集長。エディスト編集部七人組の顔ぶれ。

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