未知奥トポスめぐりⅣ 付けて転じるドリーミングー小原昌之師範代の石巻

2021/04/20(火)10:28
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 古代からみちのくの人や物の流れの要であった北上川。それが太平洋につながる街石巻の小さな洋食屋に少年はいた。カウンターで宿題をしていると、父がピザを窯に入れ、母がかわるがわるやってくる常連客を迎える。
 少年は、遊びをつくるのが大好きだった。石巻の街を舞台にして、たとえば鬼ごっこのワールドモデルをドラキュラに翻案し、十字架やにんにくを鍵にルールを決めて、広小路やデパートや路地を駆け巡った。

 遊びをせんとや生まれけむ―少年は長じて、イシス編集学校[遊]風韻講座の韻去者が集うEdit Cafeのラウンジ、半冬氾夏寮の片隅にいつのまにか温泉を掘り当て、湯守として韻去者たちを迎え始めた。
 その温泉は、いくら浸かってものぼせることのない、言葉の泉である。誰もが講座で夢中になった連句の場を温泉に見立て、同年元旦に自らが韻去した第17座胡桃座の連衆と歌仙を巻き始めた。イシス20周年の2020年を言祝ぐ20巻の歌仙を奉納する、というターゲットを掲げて。
 ちょうど新型コロナウィルスの影響が日本で顕在化した4月からは、連衆を全韻去者から募り、2020年を通して寮内で歌仙を興行してきた。巻が改まるごとに、式目に工夫を凝らすことも忘れない。

 そして、2021年元旦、ZOOMで顔を合わせて巻いたオンライン歌仙1巻を含め、21巻を寮に納めた。歌仙秘湯に逗留した韻去衆は、これまでの18座のうち15の座から38名におよぶ。

 湯守は時折フーテンの寅さんのペルソナをかぶって登場し、連衆をつなぎ一座としていった。(本人のおだやかで知的なたたずまいはむしろさくらの夫の博に近いが)

 湯守こと小原昌之師範代の専門は、自身が連句との相似を見出すカウンセリングだ。10歳のころふいに「自分はありとあらゆる心を知ってしまった」と感じた記憶をもつ少年は、思春期を経て「人間のことがよくわかる勉強がしたい」と大学で心理学を専攻した。在学中のアルバイト先の病院で、1983年当時の日本では希少であったカウンセリングの研究所を設立していた大須賀発蔵さんに出会う。
 そして、生涯学んでいきたい志を伝え、卒業後5年間は研究生として籍を置きながら、不登校児の家庭教師や病院の非常勤心理士をして生活費に充てる下積み時代を送る。
 その後、茨城県の心理専門職となり、児童相談所や精神科病院、リハビリテーションセンターなどの臨床現場で勤務し、この3月に定年を迎えた。定年後は大須賀さんの研究所が前身である茨城カウンセリングセンターで副理事長を務めながら、より広くカウンセリングを提供していく予定だ。

 石巻の海岸近くには、商船が出発する前に天候を観察したという日和山がある。
 その山にあった中学・高校で授業を受ける間、小原はいつも海の向こうに浮かぶ網地島を見ていた。日和山に登った松尾芭蕉が、霊場として名高い金華山と間違えた、牡鹿半島の先にある島だ。
 地味な男子校の日々の中で、離島は自由な楽しみの象徴だった。伊達政宗が石巻から出航させた慶長遣欧使節の面影が心に宿っていたのかどうか、「大学生になったらヨットで風力だけを使ってあの島に渡りたい」とずっと思っていた。そして大学3年生の時に、石巻港から6時間かけてそれを実現した。

 

2010年9月の日和山からの眺め


 日常から離れてハレの日をたのしむ場としての離島は、半冬氾夏寮が一旦閉じられてからSlackに移った連句の場にも投影されている。小原は意識していなかったそうだが、その場を「UKKA離島」と名付けた。寮内で歌仙を巻く過程で、まだまだ慣れない連衆たちがみなそれぞれ式目に触れるたびに、「UKKARI」の称号を得ながら受け入れられてきたこととの合成である。

 網地島に上陸した時のことを思い出すと、ひとつながりに想起することがある。夕方浜に上がって、テントを張って迎えた夜、砂の上に寝そべって眺め続けた星空だ。後年東京出身の友人を連れて行った時、人工的な光がなにもない浜で「あまりにも星が多くて気持ち悪い」という感想を聞いた。

 

網地島の浜辺


 その星空を、石巻市街でも見た、と友人に聞いたのだ。小原は鹿児島にいてそれを見ることはできなかった。2011年3月11日の夜のことである。
 茨城に帰れなくなって取ったホテルから、石巻の家族や友人に電話をかけ続けた。やっとつながった友人のひとりから「流された」という言葉を聞いたところで電波が途切れた。「流された?」石巻で生まれ育った土地勘でも、市街地に波が到達するということはにわかには想像ができなかった。
 両親の洋食屋は肩まで水に浸かるも、次第に被災した人々が集まってきて、ピザ窯を囲んで薪をくべ、ぽつぽつとこぼれる言葉を交わす場となっていた。

 一か月後に見た故郷の街は、まるでゴジラが一切のものをなぎ倒しながら通過した跡のようだった。
 小原にとって子供のころから一番怖い夢は津波の夢だった。けれど、幾度も見てきた津波の夢を、東日本大震災後は見ることがなくなった。
 少年のころ、ドラキュラや大脱走などのモードに仕立てて走り回った街、そのトポスを小原はどんな気持ちで見たのだろう。

 「それはね、アボリジニの経験に近いんじゃないかと思うんですよ」。予想外に明るくも聞こえる声で小原は言った。アボリジニは「土地は白人によって奪われた。でも、ドリーミングは奪われていない」と。ドリーミングとは、近代化したわたしたちの概念とはまったく分節化の違う概念だ。
 アボリジニは、ドリームタイムに祖先の活躍によって土地のかたちが決められたと考える。その時、祖先はその土地に固有の潜勢力を忍び込ませたと。
 ドリーミングはドリームタイムに起こったことに近づくためのものだ。時間を超えて、というよりも、時間に関わらず存在する土地そのものに溶け込んでいく。土地だけでなく動物や精霊とも、自分が分かれていない。ドリーミングを生きることができた時に、そのことがわかる。
 小原も、ゴジラが通過しても変わらない、石巻そのものを感じたのだろうか。

 震災の2,3年前から、茨城から帰省した時、夕方の北上川で風に吹かれていると、なんだか石巻に包まれているような気がした。
 小原はゲニウス・ロキの影向をつかまえる。症状の重いクライアントのカウンセリングも多く担当するなか、自分の心身を健やかにしておくことが職業上の責務と感じた40代、その手段として身につけた瞑想の最初の師は、勤務していた県立病院の奥庭の山桜だった。
 遊びをつくることが好きだった少年は、遊の字の意味する「吹き流しのついた旗竿を持つ人」なのかもしれない。その旗には一族の霊が宿っているという。旗を立て、そこに宿るものに感応するのだ。

 流された橋や岸辺に咲く桜
 小原のこの一句は、石巻の中心部で北上川にかかる内海橋を詠んだものだ。この橋は、津波とそれによって流されてきた家屋などに耐えかねて崩壊した。ようやく小原が石巻に帰ることができたのは桜の季節だった。
 この句は、「UKKA離島」で毎月行われている句会で、連衆から3月の天の句に選ばれている。

 連句とカウンセリングの相似律は、まず互恵的であることだ。
 カウンセリングの道具は耳と心と口。言葉はイメージを載せた荷車だという。よく聞いて、そこに載っているものを心で感じ、返す。これは連句の付けである。匂い・移り・響きもカウンセリングで感じる。相手の言葉があればこその場の転じだ。自分の付けもなんらかの形で相手の中に揺らぎを起こしてくれればいい。

 突然秘湯を掘り始めた小原の定年後のテオリアは大きく、プラクシスは速い。連句を用いた新しい一座建立のカウンセリング講座の立ち上げを皮切りに、「令和のカウンセリング俳諧師となって全国の縁ある方々と歌仙を巻く旅をしていけたら幸せ」と語る。膠着した場に風を通して去っていく、寅次郎さながらだ。
 すでに日本連句協会や芭蕉の系譜につらなる猫蓑会の会員になり、俳諧武者修行をはじめている。連句とカウンセリングを一種合成して、新しい方法を生み出すことを目論んで。

 

われわれがいま一番失っているか、もしくは苦手になっていることが少なくとも二つある。ひとつはインスピレーションを受けたり放ったりすること、もうひとつはトポスにこだわってその夢を見ることだ。世の中がエビデンス(証拠)のなすりつけあいになって「ひらめき」が後退し、どこでもいつでもユビキタスになれるため「その場」にこだわれない。
千夜千冊10夜 ルネ・デュボス『内なる神』)

 

 小原は、石巻で茨城で津々浦々で、秘湯で離島で、旗を携え影向を感じ、付けて転じるドリーミングの中にいる。


  • 林 愛

    編集的先達:山田詠美。日本語教師として香港に滞在経験もあるエディストライター。いまは主婦として、1歳の娘を編集工学的に観察することが日課になっている。千離衆、未知奥連所属。