【太田出版×多読ジム】それはただの日本のチンコ (石黒好美)

2022/08/08(月)10:00
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多読ジム出版社コラボ企画第一弾は太田出版! お題本は「それチン」こと、阿部洋一のマンガ『それはただの先輩のチンコ』! エディストチャレンジのエントリーメンバーは、石黒好美、植村真也、大沼友紀、佐藤裕子、鹿間朋子、高宮光江、畑本浩伸、原田淳子、細田陽子、米川青馬の総勢10名。「それチン」をキーブックに、マンガ・新書・文庫の三冊の本をつないでエッセイを書く「DONDEN読み」に挑戦しました。


 

 ほぼ全てのコマに第二次性徴を終えた男性のチンコが登場する。モザイクや白塗りで隠されることもなく、チンコは制服を着た少女の手の中で弄ばれ、口づけされ、一緒に入浴する。
 なぜこんなマンガが年齢制限もなく、堂々と読めるのか。それは、チンコだけが身体から切り離されているためである。少女たちが愛でるのはペニスでもファルスでもない。「本体」から離れた、まるくてちいさく、やわらかくてかわいい「チンコ」なのだ。

 

「主体」と「客体」を逆転させたタブロー

 男根は権力や家父長制の象徴であり、女性たちにとっては自らを支配し抑圧し、蹂躙するものでもあった。少女たちが何ら恐怖を感じることなくチンコと戯れ「みんなでチントークしよ」と屈託なく言えるのは、「本体」から切り離されているからに他ならない。チンコはタブローなのだ。
 タブローは、カンヴァスに描かれ額装された絵画である。タブロー以前の絵画は壁画であり、聖堂や礼拝堂の内部装飾の一部だった。15世紀以前のヨーロッパにおいて、絵画は鑑賞者を建築ごと信仰の世界へ没入させるためのツールであった。
 しかしタブローは場所に依存しない。絵画の外部は額縁によって切断され、どこへでも持ち出すことができる。自宅で、都市生活者のサロンで、展覧会で、鑑賞者は額の内側に描かれた聖書の物語を好きに読み取る。絵画の内部と外部を切り離したタブローは、鑑賞者に特権的な地位をもたらした。主体は絵を見る者自身であり、描かれた神や聖書のワンシーンは「客体」となった。タブローは、世界の新たな見方の発明でもあったのだ。

 

 

「かわいい」という額縁の発明

 しかし、チンコをギロチンで切り落として蒐集する令和の寓話を待たずとも、私たちはとうに女性たちが手にしたタブローを知っていた。フェミニズムだ。触れたそばから切られそうな鋭さと、ノートの隅にこっそり書いたつぶやきも包み込まんとする慈愛をもった、燃えるようなショッキング・ピンクの額縁だ。「見られる側」であった女性たちは押し付けられてきたフレームを疑い、毅然と世界を見つめ返し始めた。
 一方でフェミニズムは「主体で在らねばならない」という新たな葛藤ももたらした。性的な主体とは?女性性とは?他者に規定されることのない「私」とは?女性たちは自らタブローを描き、「私」の物語を生み出す必要にも迫られた。
 大塚英志は、かつて連合赤軍の女性たちはマルクス主義に、その後の世代の女性たちは消費社会的なふるまいに「私」を象る言葉を求めたと喝破する。彼女たちは、男性もファンシーグッズも、DCブランドも「天皇」さえも、「かわいい」という評価の額縁にどんどん入れていく。既存の歴史や文脈から対象を切り離し、自らの手中に収まる「消耗品的な愛玩物」にしてしまうのだ。男性の身体から性器を切り離し、ペットのような「チンコ」だけを求めるように。

 

 

私たちは「主体」を求めて彷徨うチンコである

 「彼女たち」が手記や少女漫画を描き、消費に没入し、自らの身体さえも人工化・サブカルチャー化して「私探し」に奔走してきたのに対し、男たちは「私」「ぼく」であることを掴み損ねてきた。『それチン』で、チンコとの関係を楽しむのは少女たちだけだ。男たちはチンコに縋り、振り回され、「チンコなき自分に価値はあるか」と苦悩する。切っても切っても生えてくるチンコは、男性役割の重責から降りたいと願いつつ、「男らしく」も在りたいという解けない呪縛に苦しむ現代男性のシンボルだ。町を荒らす巨大なチンコ型モンスターは、行き場を失った「男らしさ」の暴走ではないか。
 大塚はまた、連合赤軍の男性兵士の左翼思想も、趣味のアイテムで埋め尽くした「おたく」の部屋も、綾波レイとの一体化を夢みる『新世紀エヴァンゲリオン』も、全ては「母胎」としての「国家」の代替品だという。男たちは「強い日本」やアニメやゲームといった、サブカルチャーの形をしたタブローに生き延びるすべを求めてきたのではないか。
 もしかすると、西洋的な「主体(私)」とは、神や国家という大きな「本体」との関係の中でこそ立ち上がるものなのかもしれない。いつからか国家という「母胎」から切り離されたまま、「主体」となるべくサブカルチャーに耽溺してきた日本の私たちこそ、弱く頼りない「チンコ」だったのではないだろうか。
 『それチン』の最後には、チンコが再生しなくなった後の人生を生きる男性や、集めたチンコを手放す女性が登場する。それは強固な額縁の中でもがく私たちの姿のようでもあり、枠組みを作り替えて新たな物語へと向かおうとする希望のようにも読める。

 

Info


⊕アイキャッチ画像⊕
∈『それはただの先輩のチンコ』阿部洋一/太田出版
∈『タブローの「物語」』望月典子/慶應義塾大学三田哲学会叢書
∈『「彼女たち」の連合赤軍』大塚英志/角川文庫

 

⊕ 多読ジムSeason10・春 

∈選本テーマ:版元コラボエディストチャレンジ

∈スタジオNOTES(中原洋子冊師)

 

  • 石黒好美

    編集的先達:電気グルーヴ。教室名「くちびるディスコ」を体現するラディカルなフリーライター。もうひとつの顔は夢見る社会福祉士。物語講座ではサラエボ事件を起こしたセルビア青年を主人公に仕立て、編伝賞を受賞。

コメント

1~3件/3件

川邊透

2025-06-30

エディストの検索窓に「イモムシ」と打ってみたら、サムネイルにイモムシが登場しているこちらの記事に行き当たりました。
家庭菜園の野菜に引き寄せられてやって来る「マレビト」害虫たちとの攻防を、確かな観察眼で描いておられます。
せっかくなので登場しているイモムシたちの素性をご紹介しますと、アイキャッチ画像のサトイモにとまる「夜行列車」はセスジスズメ(スズメガ科)中齢幼虫、「少し枯れたナガイモの葉にそっくり」なのは、きっと、キイロスズメ(同科)の褐色型終齢幼虫です。
 
添付写真は、文中で目の敵にされているヨトウムシ(種名ヨトウガ(ヤガ科)の幼虫の俗称)ですが、エンドウ、ネギどころか、有毒のクンシラン(キョウチクトウ科)の分厚い葉をもりもり食べていて驚きました。なんと逞しいことでしょう。そして・・・ 何と可愛らしいことでしょう!
イモムシでもゴキブリでもヌスビトハギでもパンにはえた青カビでも何でもいいのですが、ヴィランなものたちのどれかに、一度、スマホレンズを向けてみてください。「この癪に触る生き物をなるべく魅力的に撮ってやろう」と企みながら。すると、不思議なことに、たちまち心の軸が傾き始めて、スキもキライも混沌としてしまいますよ。
 
エディスト・アーカイブは、未知のお宝が無限に眠る別銀河。ワードさばきひとつでお宝候補をプレゼンしてくれる検索窓は、エディスト界の「どこでもドア」的存在ですね。

堀江純一

2025-06-28

ものづくりにからめて、最近刊行されたマンガ作品を一つご紹介。
山本棗『透鏡の先、きみが笑った』(秋田書店)
この作品の中で語られるのは眼鏡職人と音楽家。ともに制作(ボイエーシス)にかかわる人々だ。制作には技術(テクネ―)が伴う。それは自分との対話であると同時に、外部との対話でもある。
お客様はわがままだ。どんな矢が飛んでくるかわからない。ほんの小さな一言が大きな打撃になることもある。
深く傷ついた人の心を結果的に救ったのは、同じく技術に裏打ちされた信念を持つ者のみが発せられる言葉だった。たとえ分野は違えども、テクネ―に信を置く者だけが通じ合える世界があるのだ。

山田細香

2025-06-22

 小学校に入ってすぐにレゴを買ってもらい、ハマった。手持ちのブロックを色や形ごとに袋分けすることから始まり、形をイメージしながら袋に手を入れ、ガラガラかき回しながらパーツを選んで組み立てる。完成したら夕方4時からNHKで放送される世界各国の風景映像の前にかざし、クルクル方向を変えて眺めてから壊す。バラバラになった部品をまた分ける。この繰り返しが楽しくてたまらなかった。
 ブロックはグリッドが決まっているので繊細な表現をするのは難しい。だからイメージしたモノをまず略図化する必要がある。近くから遠くから眺めてみて、作りたい形のアウトラインを決める。これが上手くいかないと、「らしさ」は浮かび上がってこない。