鳩山郁子 美しい牢獄【マンガのスコア LEGEND50】

2022/06/04(土)10:25
img

 前にもちょっと申し上げたことがありますが、LEGEND50のリストって私が作ったわけではないのですね。ですから、実を言うと私自身、あんまり得意でない人がいないでもありませんでした。

 とはいえ、さすがにレジェンドな人たちだけあって、全然知らんとか、聞いたこともない、という人はいなかった…

…と言いたいところですが、実は一人だけいたんですね。

 

 今を去ること二年前、当連載が始まる前の打合せのときのことです。

「実は私、このLEGEND50のリストの中で、一人だけ知らない人がいるんですけど…」

と白状すると、吉村堅樹、金宗代両編集長から「え!?誰誰誰?」と聞かれ、

「鳩山郁子……、て人なんですが……」

と答えたところ、

「え~~、知らないんですか~~」と驚かれてしまいました。

「そ…、そんなに有名な人なんですか」

「超有名っスよ~」と両氏。

「たとえば、どんな作品が…」と聞いてみると、

たちどころに金さんの口から

「うーん、『スパングル』とか『カストラチュラ』とか、あと『寝台鳩舎』とかですかね」

と、スラスラっとタイトルが出てくるではありませんか(すかさず、メモったのは言うまでもありません)。

 

 まあ、そんなこともあって、この人のことを後回しにしているうちに、こんなところまで来てしまったわけですが……。

 いや、もうやるしかないですね。

 人から勧められたり、なんらかの縁で、はからずも自分がふだん手にしないようなものを手にする経験(編集学校や多読ジムの課題図書などもしかり)というのはチャンス。こういう時こそ、ぐっとアクセルを踏み込んでダイブしていくと思わぬ収穫があるものです。

 金さんがタイトルを挙げた上記の三点のほか、比較的直近の作品である『ゆきしろ、ばらべに』『羽ばたき』を入手し、取るものも取りあえず読んでみました。今回、ほぼ初めてこの作家を読んだことになります<1>。

 

今回はこれだけしか読んでないのであしからず

 

 ムムッ。めっちゃ耽美です。

 たしかに、よっぽどの評判を耳にしない限り、自ら積極的に手に取るタイプの作品ではないですね。

 私の手持ちのマップの中に、むりやりなんとかこれを位置づけるなら、ニューウェーブ系の後継者ということになるでしょうか。その作品の多くが「二人の少年」というモチーフで描かれており、BL成分も感じられないことはないですが、ジャンルとしてのBL物とは、かなり隔たりがある印象です。

 

 今回は、この中から『寝台鳩舎』のラスト近くの一ページを模写してみることにしました。

 

鳩山郁子「寝台鳩舎」模写

(出典:鳩山郁子『寝台鳩舎』太田出版)

 

 作画にはけっこう時間がかかりました。密度の高さも原因の一つですが、それよりもペンを走らせる速度が【かなり遅い】のですね。すばやくサッと引いた線ではなく、石版にガリガリと刻んでいくようなゆっくりした、引っかかりのある線です。

 丸ペンだと思いますが、消え入りそうなほど【細い線】ですね。こんな弱々しい線で大丈夫かしらと不安になりながら、少しずつ線を重ねて行くにつれ、量感のある形が出来上がってくるのには感動を覚えました。

 模写って、本当に驚きの連続です。毎回、いろんな描き方に出会うのですが、全部正解なんですね。

 影のつけ方がちょっと特徴的です。【均等に並んだ細い線】を重ねながら銅版画のようなタッチを再現しています。

 陰影がしっかりついているので、描き込みのわりに、すっきりした見やすい絵になっていると思います。

 

■閉ざされた世界

 

 さて、今回描いたこのページは、いったい何のシーンかと言いますと、一見すると少年が空中を舞っているように見えますが、実はこの少年、擬人化された鳩なんですね。

 大島弓子や前回の松本大洋のように擬人化猫ならわかりますが、擬人化バトは、さすがに斬新です。この鳩たちには皆、名前がついていて、なおかつ美少年。何がどうとは言えないのですが、すごく倒錯的です。

 

 今回手にした本のうち、『カストラチュラ』と『寝台鳩舎』は、ともに、まとまった長編作品ということもあり、著者の嗜好の一面が観察されやすいものです。

 かたや1995年描き下ろしの初期作品、かたや2016年刊行の近作で、20年近い隔たりがあるのですが、非常に相似的な構造を持っています。

 

(鳩山郁子『カストラチュラ』青林工藝舎『寝台鳩舎』太田出版)

 

 どちらも史実をブリコラージュした架空の歴史を舞台に独自な世界を創っています。

『カストラチュラ』では、中国の纏足の風習、宦官、ヨーロッパのカストラート(去勢歌手)などのエッセンスをごた混ぜにして「架空の中国に似た国で、かつて革命前の王朝に纏足をした去勢歌手たちがいた。そしてその生き残りが今も生きている」といった世界。

『寝台鳩舎』では、軍事通信に伝書鳩を利用する”軍用鳩”の話をもとに、「近代の塹壕戦において、移動する前線に伴って通信拠点も移動する”移動鳩”なるものが存在した」という設定が出てきます(”移動鳩”はさすがに創作だろうと思いつつ、念のため検索してみたら、なんと旧日本軍で実際に研究されていたそうです。)。

 そして、こうした異常な世界設計のもとで、過酷な試練に巻き込まれる少年たちの物語が始まるのです。

 これらの作品において、運命に対する少年たちの態度は、非常に受動的で、痛々しいほどに従順です。この雰囲気、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』のテイストをちょっと連想させられました。

 

(カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』早川書房)

 

 作中の彼ら(そして読者である我々にも)にとって、全体像のよく見えない不条理な状況があり、そこから逃れるすべはない。意味不明な状況に放り込まれ、まるで家畜のように、従容としてそれを受け入れるしかない(『カストラチュラ』では、どうやらカニバリズムのようなことが起こっているようなのですが、その全体像は最後までよくわかりません)。

 そして彼らには皆、なんらかの名状しがたいオブセッションがあり、つねに何かに急き立てられるように生きています。この昏い欲動への指向性はいったい何を意味しているのでしょう。

 一方で『スパングル』に納められている短篇群に眼を転じてみると、長編作に見られるような切迫感は希薄で、耽美で美しい世界が展開されています。

「アックス」94号(特集鳩山郁子)の対談記事によると、

「私の中で両極端なものが好きで、例えば美しい透明感のあるものをずっと描いていたら、その反動で凄くグロテスクで醜いものを描きたくなる。前の2冊(『月にひらく襟』『スパングル』)で涼やかなものをずっと描いていたから自分の中のバッドテイストな澱がどんどん溜まっていって、三作目の『カストラチュラ』でバランスを一気に取ったんだと思います。」

と、言っていますので、こうした違いは、ある程度意識的に行われているのでしょう。

 

 とはいえ、「美しい透明感のあるもの」と「凄くグロテスクで醜いもの」という違いこそあれ、そこに流れるテイストは一貫しています。そこはかとなく漂う閉塞感。籠の中の鳥のようなはかなさ。そして本人たちにも、その意味するところが全くわからない、やむにやまれぬ衝動。

 

 この感覚って見覚えがあるぞ、と思っていたら、ふと思い出しました。

 奇妙に歪んだ法則の支配する“残酷な世界”の中で、必死に生きる少年たち――2010年代を象徴する大ヒットマンガ『進撃の巨人』が、まさにそうした作品だったのでした。

 そこでは、やむにやまれぬ外的な制約=牢獄と同時に、個々の人間に巣食う内的な牢獄、得体のしれない強迫観念が執拗に描かれます。

 そして、欲望とも使命感とも判然としない不思議なモメントに突き動かされ、むやみと必死になって生きている彼らの姿に、私たちは奇妙なリアリティを感じ、それを受容しているのです。

 

(諌山創『進撃の巨人』26講談社)

 

 このマイナー作家(私が知らんかっただけ?)の描く世界が、現代の私たちの内面風景に徐々にシンクロしつつあるのでしょうか。

 

■デビューの頃

 

 鳩山郁子は、松本大洋の一つ下の1968年生まれ。LEGEND50の中では最年少です。

 近作『ゆきしろ、ばらべに』の巻末に載っている作品リストを見る限り、作品のほとんどが「ガロ」及び、その後継誌の「アックス」に限られており、あまり世間的に知られていないのも無理からぬところがあります。

 Wikipediaによると「1987年、「もようのある卵」(ガロ10月号)でデビュー」とのことですが、『ゆきしろ、ばらべに』巻末に収録されている「少年ロンド」というのが「COMIC BOX」1987年8月号初出であり、こちらの方が早いようです<2>。『スパングル』にも「ガロ」デビュー以前の「COMIC BOX」収録作が二本ほど載っています。

 この時点ですでに少年二人の物語であるところが興味深いのですが、イラスト的に簡略化されたタッチであるせいか、軽みが感じられます。

 以後は、ほとんど「ガロ」を発表の舞台として作品を描き続けていたようです。デビュー翌年の1988年は、ほぼ毎月のように「ガロ」に作品が載っています。最初の単行本『月にひらく襟』が刊行されたのが1991年。以後、数年おきに作品集が刊行されています。

 作風やペンタッチにも幾分か変遷があり、最初期の、ひさうちみちおを思わせる、くっきりとしたスクエアなタッチから、やがて淡く細い線に変化していき、近年になると、輪郭が強くなると同時に描き込みの密度も上がっていきます。このように微妙な絵柄の変化を経ながらも、入り抜きのない硬質な線で、ガラス細工のような繊細さを保ってる点では一貫しています。

 

■氷山の下の死屍累々

 

 さて、「ガロ」という雑誌は、すでに当連載で何度も顔を出してきました。マンガ史に特異なポジションを築きつつも重要な役割を果たしてきたことについては、もはや繰り返す必要はないでしょう。

 ところで、「ガロ」は原稿料の出ない雑誌でした(創刊間もない頃は出ていたという説もあります)。

 そんな雑誌であっても、とにかく「ガロ」に作品が載ることだけが夢、というマンガ志望者は多く、いつの時代も投稿や持ち込みはたくさんあったそうです。

 当然、その多くは落とされます<3>。

 商業誌では載せてもらえそうにない作品でも、あの「ガロ」ならわかってくれるんじゃないか、と一縷の望みを抱いて「思いの溢れすぎた」作品を持ち込み、ダメを出されて悄然と帰っていく人たちも少なくありませんでした。

 何かとこじらせがちな若者たちが向かう先は「ガロ」だけとは限りません。70年代末から80年代にかけて、マンガ業界が拡大発展するのと呼応するように、多くのマイナー誌が新創刊されては泡沫のように消えていきました。そういったところに、「生活」のことはとりあえず置いといて、やむにやまれぬ創作衝動に駆られるままに作品をぶつけていく若者が後を絶たなかったのです。

 いわゆるニューウェーブと言われた一群の人たちも、一部のスター選手を除いては、マイナー誌でひっそりと活動しつつ、一部の目利きや固定ファンに支えながらの活動でした(デビュー前の浦沢直樹が「ニューウェーブっぽい自分の作風では食べていけない」と判断した理由も、そうした状況をつぶさに観察してのことでした)。

 

 マンガの世界には、ごく一握りのレジェンドな人たちがいて、また、レジェンドならずとも自分の居場所を確保できた幸運な人たちがいます。しかし、そういった人たちの足元には、当然のことながら、さらに膨大な数の裾野が広がっていました。

 マンガ史に偉大な足跡を残したレジェンドたちを列聖し、ひたすら頌歌を奏で続けてきたこの連載も、そろそろその陰に隠された数多くの死屍累々たちに鎮魂の歌を捧げなくてはならない時が来ているのかもしれません。

 

■なぜ足穂なのか

 

 創作欲求ってなんなんでしょう。

 以前使った言葉を再び使うならば、それはやはり「呪い」というほかありません。

 それほど業の深くない多くの人にとっては、それは「若気の至り」として卒業していくものなのでしょう。かくいう私も、若い頃はマンガをせっせと描いては投稿したものですが、幸か不幸かあまり相手にされなかったおかげで、道を大きく踏み外すこともなく、世間の片隅でなんとか生活しているわけですが。

 しかし「卒業」できなかった人はどうなるのでしょう。

 サマセット・モーム『月と六ペンス』の主人公は、ある日突然、意味不明の創作衝動にとらわれてしまい、勤めていた証券会社を辞め、家族を捨てて、飛び出してしまいます。その後彼がどういう顛末をたどったかは是非作品にあたってみてください。

 

(モーム『月と六ペンス』光文社)

 

 鳩山郁子には、そうした、ある種の人間が持つ原初的な情動というものに極めて自覚的に向き合っている様子が垣間見えます。

 彼女の作品を評するときに、しばしば参照されるのが稲垣足穂です。

 彼女自身、足穂からの影響は強く自覚しているのですが、なぜ足穂なのか、ということがわからなかったそうです。上述の「アックス」の対談記事によると、マンガの世界では、すでに足穂的世界を作品に昇華した先人に鈴木翁二や鴨沢裕仁などがいた、「そこに女性の自分が足穂を手掛かりに作品を描いて発表するなんて」と、ひるむ気持ちがあったようです。

 そんなときに茂田真理子の『タルホ/未来派』(河出書房新社)という本を手にし、なにか胸のつかえが取れて「読みながら泣けてきてしまった」といいます。

 重ねて、かつてデビュー前後の頃に係わっていた「JUNE」の編集長から「自分が『JUNE』のような雑誌を作り続けていた理由は、なぜ女の子が『JUNE』的なものに惹かれるのか知りたかったからだ」と言われ、我がことのように膝を打ったという体験を語っています。

 おそらく、鳩山マンガに出てくる少年たちの物語は、単に少年を耽美的に愛でる、というより、作家の実存に関わる何かがそこに投影されており、作者自身にもよく掴めていないその感覚に、ある種の畏れを抱いているのでしょう。

 

■虚無への供物

 

 閉鎖的な純粋培養空間の中で、独自の発酵をとげていく少年たち。

 彼らは必死になって生きているのですが、その目指す先は空虚です。カストラートたちの集う庭はもはや幻影の中に消え去ってしまい、軍用鳩の運ぶメッセージは誰がどこへ向かって発信しているのかわかりません。そもそも戦闘が行われているのかどうかすら定かでない。

 彼らを取り囲むおぞましいシステムは、実は、もはや制度としての黄昏を迎えており、しだいに「無意味」の方に溶暗していきつつある。

 そんな不安定な場所に、意味の体系に組み込むことのできない、内容空疎な衝動だけが蠢いている。まさに虚無への供物ともいうべき何ものにも還元できない得体のしれない欲動。

 それが、作家自身の創作に向かう姿勢とダイレクトに呼応しているようにも見えます。

 自分はなぜ常に創作し続けるのか。何に向かって何をしようとしているのか。

 その答えは、その渦中にいるものにとっては決して手に入れることのできないものです。世界の意味は世界の内部からは指し示すことはできない。ただ、そこに顕現しているだけなのです。

 

 最新作『羽ばたき』(原作:堀辰雄)では、世界の紐帯から切り離された少年が、たった一人、塔の中に閉じこもり、孤独な戦いを繰り広げます。かつて怪盗ジゴマごっこをして遊んでいた友人たちは離れていき、最後の理解者だったはずの親友も、彼のことを理解することはできません。

 もはや彼のゲームを共有する者は誰一人いない。それでも進み続けることをやめるわけにはいきません。

 自分はいったいどこに向かいつつあるのだろう。

 問の答えは、どこまでも合わせ鏡の向こう側に逃げていくのです……。

 

(鳩山郁子『羽ばたき』KADOKAWA)

 

※※※※※※※※※※※※※※※※

 

 さて、今回をもちまして、「マンガのスコア」はLEGEND50まで到達いたしました。

 ということは最終回?

…ではないのですね。

 実は、当連載の元となっている近畿大学ビブリオシアターのLEGEND50は、藤子不二雄を一人とカウントしているのです。

 当連載では「さすがに藤子不二雄を一回というわけにはイカンだろう」というわけで二回に分けたので、その結果「LEGEND50は、実はLEGEND51であった!」という事実が、いまや明らかとなったのであります。

 

 というわけで次回こそが、ほんとの最終回です!

 はたして、そこで取り上げられる人物とは?

 乞うご期待!

 

 

◆◇◆鳩山郁子のhoriスコア◆◇◆

 

【速度がかなり遅い】90hori

せっかちなもので、ついつい滑らかな線を引いてしまい、「あっ、ちょっと違った」といった箇所があちこちあります。

 

【細い線】73hori

切れ切れで引っかかりのある線。真似するのが難しかったです。

 

【均等に並んだ細い線】68hori

これもちょっとせっかちに描いてしまい、上手く再現できていません。

 

 

  • ◎●ホリエの蛇足●◎●

 

<1>初めて読んだ

昔、ときどき買っていた「ガロ」をパラパラめくってみると、鳩山さんの作品が載っている号がいくつか見つかりました。はたして読んでみると、たしかに見覚えがあります。知らずに読んでいたのですね。

 

<2>「COMIC BOX」掲載作

マンガ誌ではないのでデビュー作にカウントしていなかったのでしょう。「COMIC BOX」は駕籠真太郎のデビュー誌でもあります。お二人とも「とりあえず載せてくれそうな雑誌なので投稿した」というところが同じです。

 

<3>「ガロ」に不採用

あのいがらしみきおも、デビュー前に「ガロ」に投稿して落ちてます。その落選作は文藝別冊『総特集いがらしみきお』で読むことができるのですが、今のいがらしのタッチからは想像もできない写実的な絵です。

 

「マンガのスコア」バックナンバー

 

アイキャッチ画像:「アックス」vol.94青林工藝舎


  • 堀江純一

    編集的先達:永井均。十離で典離を受賞。近大DONDENでは、徹底した網羅力を活かし、Legendトピアを担当した。かつてマンガ家を目指していたこともある経歴の持主。画力を活かした輪読座の図象では周囲を瞠目させている。