『絵師ムネチカ』から目が離せない。天才は往々にして何かが欠けている。そしてそのこと自体がまた天才の天才性を引き立たせる。周囲の人々の鼻面を引き回し、人生を変えていく「天才少年」のデモーニッシュな魅力を容赦なく描いた怪作。
これまでにも「神童」もの(?)を数多く描いてきたさそうあきら先生だが、ご本人は極めて方法に自覚的な職人タイプ。長年、マンガ学科の教員として教鞭をとり、『マンガ脚本概論』などの技法書にも定評がある。
2022年10月22日、38[花]入伝式がスタートした。校長 松岡正剛の開幕メッセージをお届けする。
37[花]では「現代を乱世」と捉え、南北朝の乱世を生きた世阿弥にあやかる方法を紹介した松岡校長。今期は「稽古」「二曲三体」「シテ」といった能に秘められた方法について口伝した。
「学び」「学習」と聞いてどういったイメージをもつだろうか? 多くの人が「教育」が思い浮かぶかもしれない。いわゆる義務教育や学校教育などである。多くは「授業」のスタイルをとり「ある決まったコンテンツを上から下へ一方通行に教える」という場合が多い。
一方、イシス編集学校での学びはいわゆる「教育」ではない。「授業」ではなく「稽古」をする。この「稽古」という概念は、花伝所が世阿弥の『花伝書(風姿花伝)』に肖っているように、能の「稽古」からきている。稽古とは、「古(いにしえ)を稽(かんが)える」こと。私たちの姿やふるまいを「古来から継承されてきたもの」とみなす。
能の「稽古」では、個人が持つ曲(くせ)をフワッとしたイメージの状態そのもので捉えていく。編集工学の視点でいえば、「らしさ」や「ぽさ」のような、略図的原型状態のまま扱えるようになること目指す。
能ではそのために「型」を方法とする。能では「二曲三体」(歌・舞の二曲と老体・女体・軍体の三体)という「型」をつかって稽古をする。なぜこのような稽古をするのか。
稽古では二曲で芸の下拵えをして下敷きをつくり、三体によって応用に向かう。世阿弥は、二曲は「まねるもの」(似するもの)、三体は「うつすもの」「わたすもの」と言った。まねる、似する、うつす、わたす。ここに芸の発祥を見たのである。
世阿弥に肖るイシス編集学校における稽古も同様である。イシスの[守](基本コース)では「38の型」を用いて編集稽古をする。この型の稽古を積み重ねていくうちに、学衆(受講生)は、個々人が抱える知覚や認識のクセを自覚する。そこからより自由な編集状態の体得を目指していく。

「世阿弥の方法は前代未聞で画期的」「世阿弥は認知論と知覚論をフル動員している。認知科学者が本気で世阿弥に取り組めば、世阿弥の方法はAIを超えているとひょっとしたら思うかもしれない」と世阿弥の「型」や「稽古」を絶賛する松岡校長。松岡校長はメッセージ中もZoom越しに入伝生へ声をかけ(画像)、テクニカルチームの操作音にも耳を澄ませる。一方的なメッセージではなく、常にその場の情報を知覚しつつアウトプットしていく。あたかも能の稽古を自ら体現するような振る舞いだった。
「もう一つ、非常に大事なことをいっておきます。それ(能)を見せる、伝えるということです」と松岡校長はいう。つづいて、能に秘められた格別な特徴を2つ明かした。
1.引き算をする
例えば舞台。緞帳もカラフルな照明もなく、ごくごく限られた要素しかない。「面(おもて)」を身につけるシテは「てる」「くもる」「かざす」「しおる」「(面を)きる」といった限られた所作のみが許されている。
しかし、こうした引き算ゆえに、わずかな所作によって天地をひっくり返すような変化を舞台で起こすことができる。
2.一様にしない
能や邦楽は「差異」を前提にしている。西洋音楽では一切のズレを排除するのに対し、能では西洋のような音の不一致に執着しない。むしろ差異を活かす方向に向かう。
そもそも、能で用いられる楽器自体が多様な性質を持っている。例えば小鼓は湿気を必要とするのに対し、大鼓は乾燥していないとうまく響かない。能は矛盾やズレをもともと内包しているのである。
松岡校長が最後に言及したのは、能の主役である「シテ」であった。「シテとはかつて栄華にあった人。それが今では零落とまでは言わずとも変じてしまっている。平たくいえば、かつての一番すごかった頃を忘れてしまっている存在です」(松岡)。
この「栄華」を「編集的自由状態」に置き換えて見ると、わたしたちはいくつもの制約下に置かれている。幼少期のような自由な見方を持ち続けられている人は稀有だろう。こうした状態になってしまった原因について「教育やつまらない友人との交流、余計な仕事をしすぎたことかもしれない」と松岡校長は述べる。

「江野澤のエディスト記事は素晴らしかった」(松岡校長)。江野澤由美錬成師範は、外資系マーケター時代に、西洋型のビジネス手法に違和感を持ったことがきっかけで、「方法日本」を根ざすイシス編集学校の門をくぐった。
日本における「才能」とは、欧米でいう「タレント」ではない。素材に「才」があり、それを「能」が引き出すと捉えている。
能では「二曲三体」によって、人が古来から継承してきた「才」を引き出していった。同様に、イシス編集学校は編集稽古で体得する「型」によって、その人が本来もっている見方(才)を引き出していく。編集稽古とは、それぞれの本来へ向かうための再編集行為ともいえるだろう。
花伝所とは、いうまでもなく編集コーチ「師範代」の養成所である。ここで稽古を重ねた花伝生が師範代となり、学衆がそれぞれの本来へ向かう「編集稽古」の教室を担っていく。
田中晶子花伝所長によると、38[花]の入伝生の特徴はその多彩なプロフィールにあるという。20名の多様な「才」が次々に引き出されていくプログラムが、いよいよスタートを切った。

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校長:松岡正剛
所長:田中晶子
花目付:深谷もと佳、林朝恵
花伝師範:吉井優子、岩野範昭、中村麻人、阿久津健
錬成師範:蒔田俊介、嶋本昌子、平野しのぶ、内海太陽、江野澤由美、松永惠美子、山本ユキ、小椋加奈子
上杉公志
編集的先達:パウル・ヒンデミット。前衛音楽の作編曲家で、感門のBGMも手がける。誠実が服をきたような人柄でMr.Honestyと呼ばれる。イシスを代表する細マッチョでトライアスロン出場を目指す。エディスト編集部メンバー。
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