[週刊花目付#31] 世界を信じながら世界を疑う

2022/05/31(火)15:00
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週刊花目付#31

 

■2022.5.24(火)

 

 花伝所名物「花Q林」は、その世界定めを禅林に肖っている。平たく言えば「禅林ごっこ」の編集問答だ。カリントウの先鋒には阿久津健錬成師範が立って、ごっこ遊びを先導している

 

 からたち道場の六人衆が、ニレのデザインしたお揃いの「道場着」を纏い、次々に現れてはカリントウの問いに即答で応じている。道場着といっても、シグネチャの周囲にカラタチの棘を模したギザギザをあしらっているだけのことなのだが、こうした新たなツール・ロール・ルールが世界定めによって誘発されることこそが「遊び」の真骨頂である。

 遊びとは、たんに気楽な気晴らしや気休めではなく、編集的自由を祝福する祭りなのだと思う。

 

 

■2022.5.25(水)

 

 『シン・ウルトラマン』鑑賞。
 ウルトラマンが初めて地球に降臨した世界を描いた作品とのこと。初代ウルトラマンの登場が1966年だから、半世紀越しに世界定めが更新されたことになる。その試みは成功していたように思う。懐かしくもあり、新鮮でもあり、充分に楽しめた。

 

 年齢を明かすようだが、私はウルトラマンのいる世界をリアルタイムで受容した最も若い世代である。当時の私は物語の内容を理解するには幼な過ぎたが、大人たちにとっても銀色の巨人の登場が未知の衝撃だったことを、若き日の父の姿とともに記憶している。
 以降、私にとってウルトラマンは「父性」と紐づけられた巨人ならぬ虚神(バーチャルヒーロー)として、世界像の一部に深く組み込まれていった。


 その父性について、「現代日本には帰るべき父性は存在しない」と喝破したのは河合隼雄だった。
 曰く、そももそも日本は均衡の上に築かれた中空構造の文化であるから、日本的父性なるものがあるとしても、それは「ロールモデルとしての父」を演じているに過ぎない。にも関わらず、日本人は明治以降のグローバリズムのなかで、合理思考にもとづいた個人主義的な西洋的父性に対抗しようとするあまり、持ち前のユニークな心性を見失ったまま迷走するばかりではないか、と。

 さらに河合は、乱世に臨む弱い若者たちを強い父性によって鍛えてもらうべきだとする意識について、それが一見勇ましく見えるものの、実態は強い他者へ依存する母性的な発想でしかないことを、臨床心理の現場から憂えた。

 

 さて、この日本的父性の問題を、ウルトラマンがサブカルの文脈で引き取ったと見ることは出来ないだろうか。

 ウルトラマンが退治する怪獣(映画版では「禍威獣」と表記する)が災害や外的脅威のメタファーであることは言うまでもなく、武力を放棄した現代日本は、友好的な虚神による超越的父性に自らの生殺与奪を委任するしか抗う術がないのである。

 

 サブカル評論家の宇野常寛は、こうした日本文化に通底する心性が戦後アニメーションに世界観として表出されていることを『母性のディストピア』(2017年/集英社)で詳らかに解き明かしている。

 河合の警鐘と重ねて言えば、現代資本主義社会を生きる私たちは否応なく西洋的な意味での「父」として機能することを強要されており、そのためのコストとして「父」を無条件に承認し献身する「母」的存在が潜在的に求められているのだ。宇野によれば、その父性と母性の共依存関係こそが戦後的文化空間の正体であり、その空間における父性のファンタジーを宮崎駿は肯定的に「きれいな嘘」として描き(*1)富野由悠季は母性の重力圏によって呪縛されるディストピアとして描いた(*2)のだという。

 

*1:天空の城ラピュタスタジオジブリ(1986年)

◆ラピュタ王家の血を引くシータは「守られるべき少女」として描かれたヒロインであり、守られることによって天涯孤独の少年パズーの生に意味を与える。
◆パズーは冒険の途中で女海賊ドーラの助けを受けるのだが、物語のなかでパズーは、ドーラとシータ2人の「母性」のうちいずれかの庇護の下でしか空を飛ぶことが出来ない。

 

*2:機動戦士ガンダム日本サンライズ(1979年〜)

◆いわゆるロボットものアニメであるが、人間の身体性を拡張する装置(モビルスーツ)としてロボットが再定義されており、操作技術の「熟練」より操作能力の「覚醒」が重要な価値として描かれた。この能力を宿す者は「ニュータイプ」と呼ばれる。
◆ララァはニュータイプの可能性を象徴するヒロインだが、物語の終盤で主人公シャアを庇って戦死する。そもそも「熟練」や「成熟」を必要としない存在のシャアであったが、それゆえに「母性」の喪失が絶望と直結した。

 

 ふーむ、なるほど。
 そう考えると、平成日本が生んだ「草食男子」たちによる「父」への成熟を辞退するかのような生き様は、自身の中空を自覚すればこその選択なのかも知れない。だとすれば、それは自らの不足を消極的だが能動的に受容する態度であり、いわば「編集的ネオテニー」と呼んで評価することさえ出来るだろう。

 そんなふうに虚構フィルターを介しながら社会に接地し、文化空間を擬装していく世界構築のスタイルもまた、日本ならではのエディティングモデルなのだと思う。

 


■2022.5.27(金)

 

 夜、37[花]の指導陣が三々五々集って「花カフェ」を開催。汁講以上、戦略会議未満のオンラインミーティングである。36[花]以降、花伝所指導陣にとってゾウダン文化の醸成に欠かせない会になりつつある。
 議題はあるけれど、議事進行に捉われることなく、そこで浮上した言葉を紡ぐようにして連想的編集を展開する作法は、師範の師範による師範のための編集稽古としても機能している。

 


■2022.5.28(土)

 

 入伝生たちが花伝式目を丸飲みしようともがいている。アタマの理解にカラダの咀嚼が追いつかず免疫的自己が発動している様子が散見される。

 

 よしよし。わからなさ」に出会っているなら、進捗は順調だ。既知と未知とを分つ界で」が機能しているのだ。膜は被包的に「わたし」を既知の領域で庇護するが、一方で、透過的に「わたし」を未知との遭遇へ導きもする。その相互編集性を自覚し、受容することを、花伝式目は促している。

 

 花Q林では、つかみどころのない「型」を巡る問答に、カリントウ阿久津が「型は、世界を信じながら世界を疑うためのもの」だと応じている。
 うんうん。極意は、閉じながら開くことなのだ。インタースコア編集のプロセスは半開複々環構造なのだから。

 

アイキャッチ:阿久津健

>>次号


  • 深谷もと佳

    編集的先達:最相葉月。自作物語で語り部ライブ、ブラonブラウスの魅せブラ・ブラ。レディー・モトカは破天荒な無頼派にみえて、人情に厚い。趣味は筋トレ。編集工学を体現する世界唯一の美容師。

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