第一回(3)ほんとうの時間【境踏シアター】

2022/05/14(土)08:00
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三、『ペスト』と時間

 

 IT革命が加速し、AI(人工知能)が人の仕事をどんどん奪うようになっている時代、金さえあれば、民間人でも宇宙飛行が経験できるようになった一方、スマホが生活の主要なアイテムとなり、心や思考ともはや切り離せなくなってしまった時代、西部開拓よろしく精神や生命の領域深く機械が侵入し新たな「フロンティアの消滅」が刻一刻と近づいている時代、私たちが生きているのはそういう時代である。こうした世界のなかで、いったい私たちに創造的な時間を取り戻すことなどできるのだろうか?

 

 まず最初に言っておきたいのは、<贋の時間>が機能するのは、日常性が維持されているかぎりであり、一歩でも非日常に踏み込んでしまえば、すぐにでもその無意味さは露呈してしまうということである。反対に<ほんとうの時間>を取り戻すためには、何もそう特別なことをしなくともほんのちょっとのことで事足りる。なぜかと言えば、もともと人間は誰もが芸術家を心に宿しているからだ。

 

 すこし意外かもしれないが、このことを教えてくれるのが、1947年に発表されたカミュの『ペスト』である。そしてさらに意外かもしれないが、「ほんとうの時間とは何か」という問いをめぐり、この作品と『モモ』やベルクソンの著作とのあいだには、たくさんの関係線を引くことができるのである。

 

 カミュの『ペスト』と言えば、コロナ禍のなかで世界的に話題になった作品である。当然、パンデミック(疫病)との関連で手に取られることが多いのだが、ほとんどの人は、おそらく中途で挫折してしまったことだろう。たしかにそこには紛う方なきパンデミックが描かれており、ダンサーよろしく死の舞いを踊って死んでいくネズミや、ドストエフスキーやゾラの小説を髣髴とさせる判事の息子の死の描写など、いくつもの印象深い場面が存在する。にもかかわらず、結局この小説にコロナのような疫病の記録や教訓話を期待してもあまり甲斐がない。なぜなら作者のカミュは、ペストを描きながらペストを越えたものを描こうとしているからである。

 

 ふつうそれは、第二次世界大戦でカミュとフランス人が味わったナチス・ドイツによる占領体験と重ね合わせて考えられる。しかしこの作品に盛りこまれた思想は、その状況さえ突き抜けてしまう。それはペストに襲われ沈滞する閉鎖都市で、自発的に衛生隊を組織し、役人では手が届かず想像することさえむずかしい市民の困窮を少しでも軽減しようと立ち上がる、この小説の第二の主人公であるタルーの言葉に象徴される。「われわれはみんなペストのなかにいるのだ」「今日では誰も彼も多少ペスト患者になっている」「誰でもめいめい自分のうちにペストをもっているんだ」「なぜかといえば誰ひとり、まったくこの世に誰ひとり、その病毒を免れているものはいないからだ」。これらの言葉が意味しているのは、タルーが自分の生涯を語るくだりを読めば分かるように、この世界では、誰もが多かれ少なかれ、人殺しに加担して生きているということであり、そして私たちは無意識のうちに、人殺しにつながる生き方や考え方を受け入れてしまっているということである。

 

 恐ろしいことに、タルーのこの洞察は、ロシアによるウクライナへの侵攻というもう一つの地獄図絵を前にしてもいっそう真実でありつづけ、私の胸を深く抉ってやまない。しかもこの業病から逃れペスト患者でなくなろうと欲すれば、「死以外にはもう何ものも解放してくれないような極度の疲労を味わいつづける」しかないのである。

 

 ところで、そんなタルーがまさに彼こそ聖者ではないかと自問する、ひとりの登場人物がいる。それは町の貧民地区に住む「喘息病みの爺さん」と呼ばれる老人である。なぜ、カミュはこのような人物を登場させたのか、そしてなぜタルーをして「聖者」と言わしめているのか。その鍵穴となるのが次の一節である。そしてそこに差し込まれるべき鍵は、これまで私が話してきたことのなかにある、と信じたい。

 

彼〔=タルー〕の手帳にしるされたところを信ずるならば、喘息病みの爺さんは小間物屋を業としていたが、五十になった時、もうこの商売もいい加減やり尽したと思った。彼は寝込んでしまい、それ以来もう起きなかった。(・・・)彼は時計というものを見ると我慢がならなかったし、また実際、彼の家じゅう捜しても一つの時計もなかった。「時計なんてものは」と、彼はいっていた。「こいつ、高いもんでね、おまけにばかばかしいしろものでさ」。彼は時間を、それも特に彼にとって唯一の重要な時間である食事の時刻を、一方のには目が覚めたとき豌豆(えんどう)がいっぱいはいっている、二つの鍋で測っていた。彼はいつも同じ勤勉な規則正しい動作で、一粒一粒、一方の鍋に豆を入れていく。彼はこうして、鍋で計られた一日のうちに目じるしとなるものを見出していたのである。「鍋十五はいになるたんび、わしのパン割が入用になるってわけだね。まったく、簡単なことでさ」と、彼はいっていた。(・・・)

 

 ここに描かれているのは、日々同じ動作を繰り返すだけの、ただの世を捨てた老人だと思ってはいけない。この老人こそは、とことんまで英雄主義(ヒロイスム)を削ぎ落とされた、最小限の「シジフォス」であり、自分固有の時間を創造しつづける、真の自由の化身なのである。彼は何にも関わらないかわりに、他の誰にもペストを振り巻くことはない。別の業病にかかったかわりに、この老人はペストを免れることができたのだ。

 

 逆にいえば、<ほんとうの時間>を失わないためには、あり合わせの日用品や道具を使い、ほかになにひとつ当てにはせず、ひたすら自分の時間を編みつづけ生きつづけるだけでいい、ということになる。『ペスト』に出てくる、もう一人の印象的な老人グランは、何十年ものあいだ、毎日少しずつ、ほんの一語か二語、自分の書いた小説の冒頭部分を書きかえつづけることに情熱を燃やしてきた人物である。彼もまたそのようにして、彼なりのミニマルなシジフォスの行を実践しているのだ。若いころの私は、この老人の一節を読んでも、才能のない売れない作家のパロディだとしか思わなかった。しかし、数十年がたち自分の人生を振り返ってみると、結局私は、このグランとほとんど違わないことしかやってこなかったと、しみじみ思うことがある。それは、胸のなかでひそかに自分についての物語を書きつづけることであり、どうにかそれが少しでもましなものになるよう日々もがきつづけることである。私はそうやって、いつかだれかが「脱帽」してくれる日を空しく期待しながら、自分という物語にあちこち手を加え、たえず手直ししてきただけなのだ。フランスの心理学者ピエール・ジャネは、「記憶とは物語にほかならない」と喝破していた。そうだとすれば、誰もがグランのように、心のうちで自身の物語の修正というシジフォスの行を繰り返しながら生きていることになる。

 

 いずれにせよ、タルーによればペストの中にあってペストを免れ、最後まで生きつづけることができるのは、シジフォスの運命を肯定的に受け入れている人たちである。興味深いことに、こうした人たちは、素朴であったりたどたどしかったりはするものの、みな自分で創りあげた時間を生きている。それはレヴィ=ストロース風に言えば、専門家たちの時間に対するブリコラージュ的時間の優越と言うことができるだろう。ほんとうの時間とは、けっして単一的なものではなく、多様で、複線的で、つねに行ったり来たり乗り換えたりできる可能性に充ちたものである。時間とは「ある」ものというより創られるもの、あるいは際限なく編まれてゆくものなのだ。

 

 とはいえ、こうした隠者たちの時間ばかりを尊重していたのでは、やはり本末転倒となってしまうだろう。この小説の中核をなすタルーたちの自発的な闘いと連帯をけっして忘れてはいけないのだ。だれかのために自分自身を無償で捧げる行為は、それだけで贋の時間の罠から身を解き放つ。想像力と健全な理性をあわせもつ彼らの活動は、臨機応変に目の前の現実に対処するだけでなく、社会そのものをも変えていく力がある。なにより肝腎なのは、それが「ほんとうの絆」を生みだし深めていく行為でもあるということだ。ほんとうの時間を編むことは、ほんとうの絆を深めていくことと固く結ばれている。おそらくサン=テグジュペリを読めば、このことがさらに理解しやすくなるだろう。

 

 それにしても、小説のなかでペストの舞台となったオランという町は、読めば読むほど、現代の日本にそしてその首都に似てくる。カミュは、ある町を知るには、人々がそこでいかに働き、いかに愛し、いかに死ぬかを調べることだと書いているが、経済しか語るべきものをもたないオランでは、愛さえ挿話的なものにすぎなくなっており、人々は無味乾燥な壁に囲まれ、孤独と不如意のうちに死んでいくほかはない。「美観もなく、植物もなく、精神もない」と形容されたオランは、『モモ』に描かれた<砂漠都市>を髣髴とさせ、すっかり影が薄くなり、ついには消え果てていきそうな印象さえある日本の首都とも重なりあう。しかしこの灰色の町にも、リウーやタルーやその他おおくの仲間たちがいて、やがてペストをうち祓ってしまう日が来ることを、私は信じてやまない。

 

 最後に、『モモ』に登場する、もう一人の魅力あふれるキャラクターの言葉を紹介してこの回を終わりたい。それはベッポじいさんである。ベッポは、しゃべるのが上手ではないが、ものごとを深く考え、ひとの見えないものがみえるという能力をもっている。道路清掃夫として誇りをもって働きながら、最後まで、モモといっしょに時間どろぼうと戦うのである。

 

 「なあ、モモ、」とベッポはたとえばこんなふうにはじめます。「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」しばらく口をつぐんで、じっと前のほうを見ていますが、やがてまたつづけます。

 「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードを上げてゆく。ときどき目をあげてみるんだが、いつ見ても残りの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はまだ残っているのにな。こういうやり方は、いかんのだ。」

 ここでしばらく考え込みます。それからようやく、先をつづけます。「 いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな? つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸(いき)のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」

 またひと休みして、考えこみ、それから、「すると楽しくなってくる。これが大事なんだな、楽しければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」

 そしてまたまた長い休みをとってから、「ひょっと気がついたときには、一歩一歩進んできた道路がぜんぶおわっとる。どうやってやりとげたか、自分でもわからんし、息もきれてない。」

 ベッポはひとりうなずいて、こうむすびます。

 「これがだいじなんだ。」

 

 

【出典】

アルベール・カミュ『ペスト』,宮崎嶺雄訳、新潮社、2020年。

ミヒャエル・エンデ、大島かおり訳、『モモ』、岩波書店、2005年。

 

【トップ画像】

レンブラント・ファン・レイン『自画像』1669。「レンブラントは生涯に百枚の自画像を描いたという。それは結果的に、時間というものを深く見つめる行為となったにちがいない。この画像は最後に描かれた自画像である。」(境)

 

【境踏シアター バックナンバー】

■ごあいさつ

■第一回(1)ほんとうの時間

■第一回(2)ほんとうの時間

■第一回(3)ほんとうの時間

  • 田母神顯二郎

    編集的先達:ヴァルター・ベンヤミン。アンリ・ミショー研究を専門とする仏文学の大学教授にして、[離]の境踏方師。ふくしまでのメディア制作やイベント、世界読書奥義伝の火元組方師として、編集的世界観の奥の道を照らし続けている。

  • 第一回(2)ほんとうの時間【境踏シアター】

    二、ベルクソンの予言    カフカやドストエフスキー、さらには荘子にまで影響をうけたというエンデの魅力は、とうてい児童文学の域に収まるものではない。すくなくとも、これだけたくさんの人に読まれてきたのに、そのほと […]

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    このたび「遊刊エディスト」にデビューすることになった境踏方師の田母神です。年甲斐もなく、すこし興奮ぎみです。編集の新たなサンクチュアリともいえるこの「エディスト」に来ただけで、自分のなかのピーターパンが、うずうずしてく […]

コメント

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山田細香

2025-06-22

 小学校に入ってすぐにレゴを買ってもらい、ハマった。手持ちのブロックを色や形ごとに袋分けすることから始まり、形をイメージしながら袋に手を入れ、ガラガラかき回しながらパーツを選んで組み立てる。完成したら夕方4時からNHKで放送される世界各国の風景映像の前にかざし、クルクル方向を変えて眺めてから壊す。バラバラになった部品をまた分ける。この繰り返しが楽しくてたまらなかった。
 ブロックはグリッドが決まっているので繊細な表現をするのは難しい。だからイメージしたモノをまず略図化する必要がある。近くから遠くから眺めてみて、作りたい形のアウトラインを決める。これが上手くいかないと、「らしさ」は浮かび上がってこない。

堀江純一

2025-06-20

石川淳といえば、同姓同名のマンガ家に、いしかわじゅん、という人がいますが、彼にはちょっとした笑い話があります。
ある時、いしかわ氏の口座に心当たりのない振り込みがあった。しばらくして出版社から連絡が…。
「文学者の石川淳先生の原稿料を、間違えて、いしかわ先生のところに振り込んでしまいました!!」
振り込み返してくれと言われてその通りにしたそうですが、「間違えた先がオレだったからよかったけど、反対だったらどうしてたんだろうね」と笑い話にされてました。(マンガ家いしかわじゅんについては「マンガのスコア」吾妻ひでお回、安彦良和回などをご参照のこと)

ところで石川淳と聞くと、本格的な大文豪といった感じで、なんとなく近寄りがたい気がしませんか。しかし意外に洒脱な文体はリーダビリティが高く、物語の運びもエンタメ心にあふれています。「山桜」は幕切れも鮮やかな幻想譚。「鷹」は愛煙家必読のマジックリアリズム。「前身」は石川淳に意外なギャグセンスがあることを知らしめる抱腹絶倒の爆笑譚。是非ご一読を。

川邊透

2025-06-17

私たちを取り巻く世界、私たちが感じる世界を相対化し、ふんわふわな気持ちにさせてくれるエピソード、楽しく拝聴しました。

虫に因むお話がたくさん出てきましたね。
イモムシが蛹~蝶に変態する瀬戸際の心象とはどういうものなのか、確かに、気になってしようがありません。
チョウや蚊のように、指先で味を感じられるようになったとしたら、私たちのグルメ生活はいったいどんな衣替えをするのでしょう。

虫たちの「カラダセンサー」のあれこれが少しでも気になった方には、ロンドン大学教授(感覚・行動生態学)ラース・チットカ著『ハチは心をもっている』がオススメです。
(カモノハシが圧力場、電場のようなものを感じているというお話がありましたが、)身近なハチたちが、あのコンパクトな体の中に隠し持っている、電場、地場、偏光等々を感じ取るしくみについて、科学的検証の苦労話などにもニンマリしつつ、遠く深く知ることができます。
で、タイトルが示すように、読み進むうちに、ハチにまつわるトンデモ話は感覚ワールド界隈に留まらず、私たちの「心」を相対化し、「意識」を優しく包み込んで無重力宇宙に置き去りにしてしまいます。
ぜひ、めくるめく昆虫沼の一端を覗き見してみてください。

おかわり旬感本
(6)『ハチは心をもっている』ラース・チットカ(著)今西康子(訳)みすず書房 2025