生命的建築とは何か:隈研吾【AIDA02】

2021/10/06(水)10:30 img
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2020年10月から翌3月にかけて、豪徳寺・本楼でHyper-Editing Platform[AIDA]SeasonⅠが開催されました。全六講のうち、第二講ではジャーナリストの石弘之、第三講は建築家の隈研吾、第四講は進化生物学者の倉谷滋、第五講は政治学者の片山杜秀がゲスト講師として参加。「AIDA考」では、代将・金宗代が各氏の編集方法を取り出しながら、講義のエディティング・レポートを連載します。

 

 ユーラシアプレート、北アメリカプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートという地球の表面を覆う4つの大きな岩盤の境界上に位置するのが、日本の関東平野であり、武蔵野台地である。その武蔵野台地から隆起するように聳え立っている61面体の石塊が隈研吾設計の角川武蔵野ミュージアムだ。

 武蔵野ミュージアムを「ルル三条」で読み解くなら、中国山東省から切り出し、遠路はるばる運ばれてきた「御影石(みかげいし)」が「ツール」。割肌(わりはだ)仕上げという表面処理技術によって、一つとして同じもののない、荒々しい自然な石の表情をつくりあげた。石の総数は約2万枚におよぶ。職人たちがノミとハンマーで一枚一枚仕上げていった。

 では、「ロール」はなんだろうか。「美術館の設計者」というのがもっともわかりやすい回答だろう。「那珂川町馬頭広重美術館」、同じ栃木県にある「石の美術館」、東京都の「根津美術館」や「サントリー美術館」など隈はこれまで数多くの美術館を手掛けてきた。

 とりわけ広重美術館は隈が設計した美術館第一号であり、自然とは何か、人工とは何かということを考える大きなきっかけとなったプロジェクトである。広重作の浮世絵「大はしあたけの夕立」にインスピレーションを受け、まずはじめに「夕立のような建築」としてデザインすることを考えたという。「夕立」のような雨は、どのようにしたら建築化できるだろうか。こうして自分自身へのお題であり、建築の「ルール」の設定した。

 「ルール」の設定がうまくいくと自然と適切な「ツール」も見出すことができる。建築予定地の敷地裏に広がる八溝山系から伐り出された「八溝杉」を材料にすることを決めた。さらにそれを3センチ×6センチ角という単位にまで最小化し、単一のユニットですべてを構成することに挑戦した。

 最小単位という点では、烏山和紙や芦野石など「身近な材料」と「身近な職人の技」を使うことにこだわった。ローカル・エコノミーを循環させることで、一つのエコロジーをつくりだそうとした。

 さて、あらためて角川武蔵野ミュージアムをつくるための「ルール」とは何か。隈は「地形そのものが建築になったようなものがつくりたかった」と語っている。ここで思い出されるのが松岡正剛座長の著書『フラジャイル』の一節だ。

地発(じはつ)という言葉がある。桜井好朗は『地発は土地を息づかせる、すなわち土地に生命を付与する行為である』と書いている。地発は土地霊(ゲニウス・ロキ)を発奮させることだった」。

 

 武蔵野ミュージアムは「生命的建築とは何か」ということがテーマになっているとも隈は述べている。近代建築史において「生命的建築」というコンセプトを最初に明確に打ち出したのはフランク・ロイド・ライトだ。正確には「有機的建築」(Organic architecture)という。ル・コルビュジエらの機能主義建築と相対立する発想である。

 ライトは、20世紀アメリカを代表する建築家であり、当時のアメリカ社会に対してきわめて批判的だったと言われている。そんな大量生産・大量消費まっしぐらの自国に対向して掲げたのが「有機的建築」だった。

 「岡倉天心と歌川広重という二人の日本人がいなかったら、自分の建築は作れなかった」というほどにライトは日本文化に傾倒し、日本建築の大きく張り出した屋根や屋根下の影といったものから有機的建築の「らしさ」を直感した。

 そのライトの思想を継承したのがジオデシック・ドーム(通称フラードーム)でよく知られているバックミンスター・フラーである。とりわけ「三角形」に対する好みはライトから大きな影響を受けている。二人は、ふつう建築ではあまり使われない形体である「三角形」のうちにさまざまな自然の原理が潜んでいることを見出した。「三位一体」「三間連結」というふうに編集術の編集思考素でも「3」という数は重視されている。

 ただし、隈は次のようにも語っている。「三角形ですらも西洋的なジオメトリーの延長にある。もっと崩れていい。この角川ミュージアムは、より自由な形、いろいろな乱雑な形の組み合わせになっている」。

 西洋近代的なデザインのルールは、第一に「バラつきがあってはいけない」。角川ミュージアムでは、あえてそれに逆らうようにして「意識的にバラつきを作る。さらに荒くすることでそれを強化する」ことで「生命的な”らしさ”」を演出した。

 それは外形だけにとどまらない。隈は「それぞれのユニット、一つの単位である『点』と『点』の関係性」を超えようとする。「点」と「線」と「面」の分類すらも無効化しようとする。「物質とは点・線・面の集合ではなく、点・線・面の振動であり、響きである」という「点・線・面」の思想が「生命的建築」のバックボーンになっている。

 「点・線・面」の思想は「負ける建築」の延長線上にある。「負ける建築」については松岡正剛の千夜千冊1107夜 隈研吾『負ける建築』に詳しいが、一言でいえば、コンクリートという強い素材を使った、環境に「勝つ建築」を大量生産してきた20世紀の建築に対して、アンチテーゼとして「負ける建築」を提案したのである。その「負ける方法」を具体的にしめしたのが『点・線・面』だ。

 編集術としては、「建築」というワードに「勝つ」「負ける」という表現を「一種合成」した方法が興味深い。「勝つ」「負ける」ということは、そこにゲームや遊びを想定していることになる。隈の建築思想の背後にはゲームデザイン的な感覚も潜んでいるのかもしれない。環境に対して「どうすれば上手く負けられるのか」というゲームである。

 ゲームデザインのための編集術といえば、やはり「ルル三条」だ。隈がレクチャーで紹介した次の3つの建築の「負ける方法」を「ルル三条」で読み解いてみてほしい。

 

 

◇◆付録◆◇

 

Water Branch House 

展覧会: MOMA Home Delivery Fabricating the Modern Dwelling

会場: ニューヨーク近代美術館 / 11 West 53 Street, between Fifth and Sixth avenues, NY, USA

2008.07.20 – 2008.10.20

インスタレーション

 

——-僕らも生物たちも絶えず体の中をいろんなものが循環している。その循環を建築でも実現できると考えた。ふつう、配管は壁の裏に隠れた脇役だが、ここでは建築を構成するもの自身が配管である。これは、ものが流れる媒体であるという意味で、通常の建築のヒエラルキーを完全に崩したものと言える。

 

——–このユニットさえ備蓄しておけば、家も作れるし、温水も冷水も作れる。電気も作れる。グリッドフリーであり、インフラフリーを実現している。通常のインフラを切断した形でも、この生物建築は生きていけるというアイデアである。これは、3・11の後のわれわれの置かれてる状況、インフラに対する信頼がなくなってしまった、われわれの置かれてる状況というのにも対応できる建築だ。

 

 

Casa Umbrella

展覧会: Casa Per Tutti

会場: ミラノトリエンナーレ (ミラノ、イタリア) / Viale Emilio Alemagna, 6, 20121 Milano, Italy

2008.5.23 – 2008.11.14

シェルター 

 

——–原理としてもう一つ面白いのは、傘が構造体になっているということ。フラードームとの違いははっきりしていて、フラードームというのは基本的には「フレーム構造」でできている。カサ・アンブレラも、傘の細いフレームで支えているのだが、実は幕にも秘密がある。この幕が「引っ張り構造」になっていて、傘のフレームの部分は「圧縮構造」になっている。「圧縮」と「引っ張り」がうまくバランスをとって全体がこんな細いフレームでも支えられてしまうという仕組みになっている。いわゆる「フレーム構造」ではなく、こういう構造を「テンセグリティ構造」という。テンションとコンプレッションでインテグリティを実現するということで、「テンセグリティ構造」と呼ぶ。

 

——–「テンセグリティ」もバックミンスター・フラーが提唱した構造だ。フラーは「引っ張り構造が実は生物の中にもあるんじゃないか」と考えた。「細胞が形を保ってるのは実はテンセグリティじゃないか」という彼の直感は、その後に生物学者によって証明されることになる。

 

 

Memu Meadows

施設名:Memu Meadows (メム メドウズ) 物件名:Même (メム)

北海道広尾郡大樹町芽武158-1 他

2011.06

実験住宅 

 

——–この家は「チセ」というアイヌの住宅スタイルをモデルにしている。「チセ」の材料はクマザサ。茅葺の家は上が「茅」であっても下は「土壁」だったりするが、「チセ」は全部ふわふわなクマザサでできているというぬいぐるみみたいな家になっている。

 

——–アイヌの人たちの知恵というのは「地面を温め続ける」ということ。彼らが冬の寒冷地での環境性能で重視したのは、ヒートストレージだった。アイヌは、夏でもずっと家の真ん中で薪を炊いて、下の土を温め続けていた。そうするとその土の余熱が冬もまだ残っている。

 

 

写真:後藤由加里


  • 金 宗 代 QUIM JONG DAE

    編集的先達:水木しげる
    セイゴオ師匠の編集芸に憧れて、イシス編集学校、編集工学研究所の様々なメディエーション・プロジェクトに参画。ポップでパンクな「サブカルズ」の動向に目を光らせる。
    photo: yukari goto