【三冊筋プレス】編集的 “異神” 像 (金宗代)

11/05(木)10:21
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「アンゴステノー! アンゴステンノー!」
 わけもわからず、よく大声で叫んだものである。この謎めいた響きこそ、ぼくにとって、神輿をかつぐときの掛け声の定番だった。けれどもそれが「牛頭天王」(ごずてんのう)の名を指していたと知って胸おどったのは、それから十五年以上も先のことである。


 むかしから行事ぎらいのぼくがジモトのお祭りに参加する気になったのは、たぶん同級生のタッピーが一緒だったこと、おやつにスイカバーやガリガリ君がもらえたこととか、動機といえばまあそんなもんだろうと思う。

 

 

 

左:鈴木政次『スーさんの「ガリガリ君」ヒット術』(ワニブックス)

右:臼井儀人『クレヨンしんちゃん 24』(双葉社)

ガリガリ君は1981年、スイカバーはぼくの誕生年と同じ1986年に発売。右図のカバーの真ん中で鼻水を垂らしているのがボーちゃん。タッピーは技能的にはボーちゃんタイプだが、フォルムはどちらかといえば、ガリガリ君に似ていた。体が大きくて丸坊主、眉が濃く太く睫毛の長い、沖縄に出自をもつ少年だった。ぼくはこの「沖縄ルーツ」という点がなぜかたいそう気に入っていた。

 

 タッピーには風変わりな特技が二つほどあった。一つは自転車の手放し運転で、両手を翼のように広げて走り抜けるそのコーナリング・テクニックたるや、何度見ても惚れ惚れするものだった。もう一つは、地面すれすれまでびよよーんと垂らした鼻水をズズズーッと再び吸い上げるという、なんだか「クレヨンしんちゃん」のボーちゃんみたいな曲芸である。こんな面白いヤツ、他にいなかった。
 そんなトモダチとコンビを組んでいたのだから、ぼくらがまともに「アンゴステンノー!」の掛け声に加わるはずがない。今でもよく憶えているのだけれど、大笑いしながら「ウンコ、シテンノー!」「アンタ、シテンノー?」という罰当たりな掛け合いを繰り返した。

 

左:小山祇園祭の様子 『祇園信仰事典』(戎光祥出版)p124より 右:神輿(筆者撮影)

小山市は中世の関東武士・小山氏に由来し、氏の開祖であり、祇園城(小山城)を築いた小山政光の息子・小山朝光(のち結城朝光)は源頼朝に仕え、承久の乱には東山道の大将軍として出陣した。このとき、朝光は津島の祇園信仰を見聞きしたのかもしれない。朝光は、現在の小山市に隣接する結城市において結城家初代当主になるのだが、のちに結城郷の総社とされる健田須賀神社は、仁治3年(1242)に尾張国津島神社から分霊を勧請し、牛頭天王は結城家第一の氏神として手厚く祀られ、広く民衆にも信仰され結城の産土神として崇敬されたと言われる。小山・須賀神社のHPでは「天慶3年(940)4月、京都の祇園社から、御分霊を勧請」したのが創祀としているが、おそらくは尾張・津島の牛頭天王社の一派のほうに連なるのだろう。

 

◆おん・ごずてんのう? なむ・ごずてんのう?

 「アンゴステンノー」が「牛頭天王」だと言うのだから、驚きである。もともと「御牛頭天王」(おん・ごずてんのう)あるいは「南無牛頭天王」(なむ・ごずてんのう)と言っていたのが、しだいに「あんごすてんのう」に転訛したと言われている。
 「あん」なのか、「おん」なのか、はたまたそうではないのか、真偽は定かではないが、「ごすてんのう」が「牛頭天王」のことを指しているのは、ほぼほぼ間違いない。
 なぜかというと、ぼくが入学から小学四年生まで住んでいた栃木県小山市のおよそ全域をカヴァーする近隣六十六郷の総鎮守と仰がれた須賀神社は、かつて「祇園さん」「天王さま」と親しまれ、そのお祭りの名も「祇園祭」「天王祭」と称した。さらに江戸時代の『下野国誌』には「当国第一の衹園会なり」とさえも記述があるからだ。

 いちばん近所の白髭神社も須賀神社の管轄だった。そんなわけで、ぼくの産土神(うぶすながみ)はどうやら牛頭天王だったらしいのである。

かつて正月に配られた小山・須賀神社の蘇民将来護符 『祇園信仰事典』p124より

須賀神社と同じく京都の八坂神社なども、もとは「祇園社」「祇園神社」と呼ばれていた。明治維新の神仏分離の憂き目にあって、とりわけ異神の象徴たる牛頭天王は目の敵にされ、多くの祇園社や牛頭天王社は改称を余儀なくされた。

 

 たとえ牛頭天王を知らずとも、京の祇園祭なら一度は耳にしたことがあるかもしれない。牛頭天王はまさしくこの祇園信仰の総本山おいて、ブッダが建立した僧坊である祇園精舎の守護神だとされ、その御子神(みこがみ)である八王子とともに帝都最大の神として畏れられ、威勢を誇った。

 とはいえ、そのおびただしい「変成」(へんじょう)ぶりを思いつくかぎり列挙するならば、こうも言えるだろう。行疫神であり防疫神。赤色肌で、頭上に牛の頭を戴き、多面多臂の異形の神。仏教は薬師如来、観音菩薩や毘沙門天と結びつき、時に陰陽道の天道神、そしてスサノヲ、そのほか赤山大明神、中国の伝説上の帝王たる神農や武塔天神と結びつくことで「深秘」(じんぴ)というタブーに身を隠しながら、「個人を救済する神」として顕れる。

 古代神話の神々とは大きく異なる、変貌する「異神」たる牛頭天王の登場は時代が中世であることを示す。

 

京都・八坂神社の祇園祭の様子 『祇園信仰事典』巻頭カラーより(撮影:土村清治)

右図は長刀鉾、左図は船鉾。祇園祭は、平安時代に疫神送りのために行われた「祇園御霊会」(きおんごりょうえ)が原型で、やがて山車や鉾などを繰り出し、風流踊りが色を添える華麗な夏祭りとして発達していった。

 

◆3つの「異」ーー異国・異病・異文

 ここでとうとう、山本ひろ子『異神』のおでましである。本書には、新羅明神に赤山明神、摩多羅神、宇賀神、そして牛頭天王と耳慣れぬ異貌の神々ばかりが登場する。装いもそれぞれに中世密教の中枢に鎮座しながら、由来は古代神話の「神」とも仏典の「仏」とも明かさず、「第三の尊格」として、習合と変容を繰り返し、あるいは祟りをなし、偽経中に生き延びる闇のマジカル・フィギュアたち。彼らが同時多発的に誕生し、連携し、時には対立しあって暗躍した日本中世の「顕夜」へと誘う。

 

左上:新羅明神(鎌倉時代 園城寺) 『異神』 口絵*一より

右上:比叡山・西塔常行堂 摩多羅神像 『異神』(平凡社) 口絵*五より(撮影:荒川健一)

下:愛知・清川智徳家蔵 牛頭天王神像 『異神』 口絵*十五より(撮影:澤井英樹)

下図の牛頭天王像は豊根村下黒川の私邸の倉に祀られている秘仏。廃仏毀釈の時に川に投げ捨てて川下で拾い上げ密かに祀ったとの伝承がある。廃仏毀釈については千夜千冊1185夜『廃仏毀釈百年』に詳しいが、慶應四年(1868)の「神祇事務局達」において「中古以来、某権現或いは牛頭天王之類、其の外佛語を以って神号に相称へ候神社少なからず候、いずれも其の神社之由緒委細に書付け、早や早や申し出づ可く候」と牛頭天王信仰が悪しき慣例の筆頭として名指しされている。

 

 異神の特徴は、大きく三つある。まず第一に「異国に出自をもつ」ということ。それを最も象徴しているのが、まさに異国の新羅国から比叡山に来臨したとされる「新羅明神」だろう。「異域異国之大王」と讃嘆する文書も残されている。そこで気になるのが、なぜ神の名において朝鮮の新羅が名指しされているのか、という点である。その謎を考えるうえで、「疫神」という異神第二の特徴がある推察を加速させる。
 というのも、疫病は異国からもたらされるといった記事がすでに『続日本紀』(797年)や『本朝世紀』(1150-1159年)などに散見される。しかも疱瘡などは「異病」と称され、国名はことさら特記されてはいないものの、「新羅国から入ってきた」との説が見られるのである。これは歴史的現在の視点からナナメ読みすると、最近の「嫌韓」や「ヘイト」のアーキタイプ(原型)らしきものが、すでにこの時期に芽生えていたと言えなくもない。

 新羅明神については千夜千冊1087夜『異神』でも詳しく取り上げられているが、じっさい、新羅明神も摩多羅神も疫神と化し、さらに赤山明神とともにその機能を分掌し、しばしば反目することで高め合い、異神トリオを形成していった。そこに牛頭天王も加えれば、中世の巨大な疫神グループが立ち現れる。

 

 

『異神 上』(ちくま学芸文庫)p104-105 

園城寺法明院蔵『新羅明神御遷座表白』では新羅明神を「異域異国之大王」と讃嘆している。本書『異神』は第一章に「新羅明神」、第二章「摩多羅神」、第三章「宇賀神」、第四章「牛頭天王」という順番で語られる。なお筆者が異神についていちばん最初に書いた原稿は「異神の像容ーー牛頭天王島渡り祭文の世界」(『神語り研究』第一号、1986年11月)。牛頭天王こそが、本書の出発点となった異神だった。

 

 そして第三の特徴は、異神たちは断片・破片の記録、すなわち記紀神話が「正典」(カノン)だとすれば「外典」や「逸文」、「異聞」や「異文」にあたる文書にしか、その痕跡が残されていないということだ。「深秘」のヴェールとはそのことである。

 しかしながら、それらは膨大にある。しかもそうした注釈書、神道書、寺社縁起、本寺物語などは、つぎつぎと変貌を遂げていった異神たちのそのありようを劇的に語るものである一方で、時に矛盾し、あい反するような内容でさえある。

 これではなかなか研究もたちゆかない。なにしろ実証がむずかしい。こうして立ち聳えるガクモンの壁を、まるで本書はあえて中世の亡霊たらんとし、するするといとも涼しげな顔で通り抜けていく。

 

左:鈴木耕太郎『牛頭天王信仰の中世』(法蔵館) 中央:長井博『牛頭天王と蘇民将来伝説の真相』(文芸社)

右:川村湊『牛頭天王と蘇民将来伝説ー消された異神たち』(作品社)

牛頭天王信仰に焦点を当てた本はこの三冊のみで、現在、新刊で入手できるのは『牛頭天王信仰の中世』しかない。「蘇民将来譚」というは、天竺の異形の王子・牛頭天王が竜王の娘を娶るべく旅をしていたのだが、ある兄弟に宿を求めたところ、富者で弟の巨旦将来はそれを拒んだので滅ぼし、歓待した貧者の蘇民将来は子孫代々の庇護を確約したという説話で、そこに「蘇民将来之子孫」というお札を持っていれば、蘇民一族とみなされ厄除の効果があるといった類のご利益話が接ぎ木されていった。この生々しくも親しみやすい物語力が牛頭天王信仰を飛躍的に広めた。

 

◆「中世神話」という方法

 矛盾する複数のテクストを横断しながら、深い眠りに落ちた「異神」を幻視するためには、特別なスコープがいる。そう、それこそが山本ひろ子を嚆矢とする「中世神話」という方法である。

 テクストと儀礼が不可分であるのなら、そこから失われた儀礼を復元し、その意義から信仰世界を顕わにすることが可能であることを示した、きわめて独創的な概念工事だ。一見すると混乱、矛盾、飛躍に満ちたテキストのその荒唐無稽にこそ、中世の信仰世界における豊饒かつ先鋭的な知が潜んでいるとみた。
 より噛み砕いていえば、テクスト群を前にしたとき、フツーの研究者は「それらが中世神話と見なせるかどうか」の定義から考える。しかしそうではなく、「それらを中世神話として捉えたときに何がワカルのか」を問う。編集工学ふうに言えば、情報の「地」をカワルと、まったく別様の「図」が浮かび上がってくるというわけだ。あるいはレヴィ=ストロースの「ブリコラージュ」なんかを思い出してほしい。

 

山本ひろ子『中世神話』(岩波書店)

「中世神話」という語自体は角川源義が初めて用い、ついで藤井貞和の論考にも見られる。それを一つの方法概念として用いたのは徳田和夫が最初といえるが、とはいえやはり山本ひろ子の方法論は、1990年後半から2000年代初頭にかけて信仰・宗教をめぐる一つのムーヴメントを形成するほどに画期的だった。

 

 光を和らげ、塵に同じうす、「和光同塵」。中世という時代をまことに端的にあらわす四字熟語だ。『老子』を典拠とするこの言葉は、仏菩薩がその威光を和らげ、汚辱にまみれた「この世」に神として化現し、衆生を救うという意味をになって流通した。こうして日本宗教史は、古代の「国家仏教」から、貴族などを中心とした一人ひとりの「個人救済」へと役割をシフトしていく。

 ごくおおざっぱに言って、その背景には「末法思想の到来と喧伝」、「浄土教および現世利益を支える密教の隆盛」がある。目まぐるしく変化していく時代だからこそ、目の前の現実を語り、意味づける神話や宗教が求められたわけだが、とりわけ民衆の崇敬、突出してポピュラリティを獲得し、全国各地で広く祀られたのが牛頭天王だった。このことから分かるとおり、京の祇園=牛頭天王という単純な図式は成り立たない。むしろ「たくさんの牛頭天王」がいたと言うべきだ。

 たとえば、「牛頭天王島渡り」と榊原家「牛頭天王祭文」は、同じく奥三河産の祭文でありながら、二つが綾なすコントラストは象徴的である。かたや疫病を造立しては、八万四千の眷属たち悪風に乗って島渡りする地獄道の主・牛頭天王。かたや追放されてアマテラスの威光の前に屈服を余儀なくされる牛頭天王。後者は明治政府の神仏分離政策によって、異神・牛頭天王が神話の神スサノヲにその身を明け渡す瞬間が目前に迫っていることを予告する。

 

 

津島の渡り 『異神』(平凡社) p557より

鴨長明が「伊勢人は僻言(ひがごと)しけり 津島より甲斐河ゆけば泉野の原」と歌ったように、津島と鈴鹿を結ぶ水路「津島の渡り」は、伊勢と尾張を繋ぐ重要な交通・信仰運搬ルートになっており、尾張から伊勢や京へ、あるいはその逆に京から東国へと向かう時はかならず津島から船を出した。意外なことに、牛頭天王は伊勢においても独自の信仰基盤を形成していた。伊勢といえば、中世神話の聖地である。

 

 もっと分かりやすい例が、西の祇園に対し、東の牛頭天王信仰のメッカとして名を馳せた津島天王社だろう。津島はその立地とともに、エコシステムも見逃せない。木曾川下流の左岸に位置し、天王川を擁する津島は葦の群棲する湿地帯である。じつはこのリゾーム状に増殖する「葦」こそが中世神話のシンボルであり、津島のトーテムでもあった。『古事記』に登場する「葦牙」(あしかび)とは葦の若い芽のことで、中世びとはこの言葉に異様なほど関心を示した。
 ついでに言えば、中世神話を読みとくもうひとつのキーコンセプトは、天地開闢の最初に顕現した神、つまり見えざる「根源神」だ。その謎を神の現象学たる中世神道によって解決しようとした。

 

大英博物館蔵 津島神社祭礼図屏風(部分) 『異神』 口絵*一十六より

津島に天王社がいつ創建されたかは不明。十一世紀頃には成立していたとみられる。官幣大社には列せられなかったものの、織田、豊臣、徳川の尊奉を獲得し、正保四年(1647)に藩主・徳川直義の寄進を寄進を受け、のち幕府朱印による神領地なり幕末に至る。津島御師の開発した檀那場は山城、伊勢、志摩、甲斐、美濃、飛騨、信濃、近江など十六ヶ国に及ぶ。NHK大河ドラマ『麒麟が来る』に登場しても不思議ではない。

 

◆葦の葉イメージメント

 文字化けしてしまうかもしれないが、陰陽師・安倍晴明が編纂したと仮託され、京の祇園社に伝わる幻の書『簠簋内伝』(ほきないでん)では、イザナギ・イザナミが高天原より天の「逆矛」を刺し下ろし「南海に国はないだろうか」と問いかけると、「蓮の葉」に乗った牛頭天王が海上に出現し、二神が「何者か」と尋ねると「わたしはこの世界の地主である」と答える。また、天地開闢のとき世界が青色に化したことを告げる。

 

国文学研究資料館蔵 簠簋内伝金烏玉兎集(宝永7年 喜多村宇右衞門梓行)

提供:人文学オープンデータ共同利用センター CCライセンス図版

中世びとは牛頭の「ゴ」と、数字の「五」を結合せずにはいられなかったらしい。「五欲」の滅罪のためであるとか、牛頭天王は「五つの角」を持つとか、それは「妙法蓮華経」の五字の表象なり等々と盛んに連想の翼を羽ばたかせた。鈴木耕太郎『牛頭天王信仰の中世』は、山本ひろ子とは異なる視点から『簠簋』を検討し、防疫の利益をもたらす「五節の祭礼」と「二六の秘文」の謎に迫る。「五」月「二六」日が誕生日のぼくとしてはこのナンバリングにも宿縁の念を禁じえない。

 

東京大学社会情報研究所蔵 諸神の加護によりて良薬悪病を退治す(安政5年)

歌川芳員・筆 『異神』 口絵*十六より

青い海の彼方から、神々の一団を率いて「蓮」でも「葦」でもなく雲に乗って牛頭天王がやってくる。尾張・津島では、八万四千の使尊眷属を先触れに天竺より飛来し、竜宮を経て本朝をさすらいわたる流浪の行疫神として「渡りの神」「みさきたなびく牛頭天王」と懼れられた。

 

 青色というのは、牛頭天王の本地仏である薬師如来のシンボルカラーで、世界が青色に化したのは薬師である牛頭天王が天地開闢の「根源神」であることを暗示する。
 こんどは空海が伝えたとされる津島社伝来の『牛頭天王講式』を読んでみると、『簠簋』の「蓮の葉」が「葦の葉」に差し替えられ、それが牛頭天王の象徴であり、しかもその葦から日本という国が生まれたことを説く。あからさまに葦のイメージが強調されていることがわかる。
 それもそのはずで、津島社最大の祭りである津島祭は前後九十日にもわたっておこなわれるのだが、旧暦六月十五日の深夜、その中核をなす儀式が、やはり御神体=牛頭天王としての葦を大海原に押し浮かべる「御葦流し」という神事なのである。これは、葦の葉に乗って出現した牛頭天王の物語、天地開闢のまつりごとの再現だとされている。

 

左:御葦船 右:御葦の束(『張州雑志抄』) 『異神』p601-p602より

日本の美称のひとつの「豊葦原中津国」を真っ先に連想させる神話の種子である「葦」は、日本の原基(アルケー)としてイメージされていた。津島では「葦」を「ヨシ」と呼ぶ。たしか古里の小山にも河原で枯れた葦を野焼きする「ヨシ焼き」という風習があったように思う。

 

 御神体である「御葦」(みよし)は、先端が二つに分かれており、「神矛」(みほこ)と呼ばれた。イザナギ・イザナミが刺し下ろした「逆矛」の形象と重なり、おそらくこれは聖性の強大化を示している。だが、「神矛」と言えど、それが「救済」のツールであるとはかぎらない。トーテムにはタブーがつきまとう。
 御葦流しのあと、御葦の束は流れ流れていずれどこかに漂着する。河辺の住民たちはそれを非常に恐れた。なぜならその場所には、疫病が起こると信じられていたからだ。
 そもそも神事が行なわれる陰暦六月半ばといえば、葦が湿原に繁茂し、同時に疫病がもっとも伝染力を誇る季節である。無数に生い茂る葦は、アナーキーに蔓延、増殖していく行疫の生命活動そのもの。そしてニョッキリと伸びる二茎の神矛は、牛頭天王の異形を示す牛角であり、より本質的には疫霊の触角メタファーと見なすこともできるだろう。
 牛頭天王が絶大な人気を誇った理由もここにある。中世びとにとって、疫病の発生とその流行がどれほどに生死にかかわる重大事であったことか。飢饉と疫病のダブルパンチを喰らった年にはひとたまりもなかった。ほかの天災や人災と異なり、ほとんど対抗策がなかったため、一家全員死亡や廃村に追い込まれたなどの記録も少なくないという。

 

京都大学附属図書館所蔵 『肥後国海中の怪』アマビエの図

コロナ禍に直面したわれわれは、いまや疫病の恐怖をよりリアルに想像することができる。現代に牛頭天王が蘇ることはなかったが、代わりに防疫の妖怪アマビエがバズったニュー記憶に新しい。いきいきと生命力溢れる中世的思考をいかに取り出しうるかを試されているのかもしれない。

 

◆オントロジックな「となりの異神」

 牛頭天王は近代化の波で「消された神」。明治維新の神仏分離政策で排斥対象の筆頭に名指しされ、ぱったりとその消息を絶つ。こういうわけのわからないものを切り捨てるのが、近代というものである。
 そんな「負」の近代史とまるでシンクロするかのように、ぼくの少年時代も突如として牛頭天王と離ればなれになった。引き裂かれたと言ってもいい。十歳のとき、アボジ(父親)が交通事故で急死し、小山から引っ越すことになったのだ。やっぱり「ウンコ」とか言って神の名を冒涜した罰(ばち)が当たったのかもしれないと悔やんでも後の祭りである。
 ところが、ところがである。いまさらながら振り返ってみると、けっして異神たちに見捨てられたわけではなかったことに気がついた。はじめての転校生となった宇都宮の戸祭小学校では、ウガというあだ名の少年と仲良くなった。ウガの本名がそう、なんと驚くべきことに異貌の弁才天女と同名の「宇賀神」である。ふたたび、異神と数奇な出遇いを果たしていたことをもちろんこのときは知る由もない。

 

左:山形・正善寺蔵 弁財天像 『異神』 口絵*十一より(撮影:内藤正敏)

右:山形・正善寺蔵 弁財天像と宇賀神像 口絵*十二より

左図の鳥居の向こうにひょっこり浮き上がっているのが宇賀神の顔。右図の上段右は、左図の全容。弁才天はインドのサラスヴァティー河を神格化した神で、聡明で美音を発し、この天を供養すれば財福と知恵を得られるとされる。宇賀神はその弁才天と龍蛇神のマトリクスとして産み出された異神。翁頭蛇体をもって大弁才天のほの暗い頭上に蟠踞する「宇賀」の「宇」は「天」、「賀」は「地」、それぞれ虚空蔵菩薩と地蔵菩薩が配され、「福徳の尊」という歓ばしい存在規定を獲得している。また、梵語で「宇賀耶」は「如意宝珠王」、「胸に動くもの」を意味し「蛇」を象徴する。白蛇の形を体とするのは、神は蛇体形で垂迹するという本覚思想に裏打ちされた神祇観による。口伝と儀軌の迷路からうかびあがる叡山潅頂の秘儀は白眉。ちなみに「宇賀神さん」の苗字を持つ人はなぜかダントツで栃木県に多い。

 

 また、宇都宮っ子にとってなじみの深い日光山には、今なお摩多羅神を祀る超レアな輪王寺がある。日光は遠足や修学旅行のお決まりの観光スポットで、中高生の頃はスノーボードをかついでたびたび通った。
 もともと宇賀神も摩多羅神も新羅明神も比叡山ゆかりの神々であり、彼ら越境者たちは、天台密教のロゴスで武装し、日本各所であざやかに変身を遂げたものたちである。とくに日光山は徳川家康の側近をつとめた天台僧・天海の山王一実神道が深く関与し、固有の慈覚大師信仰が派生した。

 知ってのとおり、慈覚大師というのは『入唐求法巡礼行記』の円仁のことで、栃木県の壬生で生まれたとされている。ここまでくると誤読こじつけ甚だしいけれど、じつは、妻の実家がそこにあるというこれまた奇縁から、いまぼくは年に数回のペースで円仁の故郷に足を運んでいる。

 

左:日光山常行堂 『異神』 口絵*九より(撮影:柴田立史) 右: 口絵*八より

右図下右:金沢文庫蔵 称名寺本『覚禅鈔』より摩訶迦羅天曼荼羅図

右図上:香川・長林寺蔵 摩恒羅神曼荼羅 右図下左:日光・輪王寺蔵 摩訶迦羅天図

梵語で「摩多」は母の意。日光山の摩多羅神は長い変貌プロセスでいつしか七母天=摩恒利(またり)神にその身を委ね、中世異神の一大潮流である疫神としての脈動を継いでいる。中世の日光山常行堂では、年に一度、盛大かつ熱狂的な「修正会」(しゅうしょうえ)が実修され、数々の芸能が繰り広げられていた。その摩多羅神が出御する聖なる夜を「顕夜」と呼ぶ。

 

 さて、ぼくとウガの幼なじみは小学校にとどまらず、公立の中・高もいっしょに通学した。卒業後、ウガはお医者さんの道へと進み、放射線科医になって、最近は奈良だか京都だかで暮らしはじめたらしい。さすが、福徳の神。原郷の叡山もすぐそばだし、なんだかよけいに神々しく思えてきた。
 ぼくはといえば、上京したものの、グダグダとあれやこれやにかまけているうちに、いつのまにかエディター擬(まが)いのことをするようになった。そしていま、異神の魔力にみちびかれるようにして、呻きも掻いて書物たちと格闘しながら、このように「遊刊エディスト」に牛頭天王のことを書いている。と、同時に「GOZ」(ゴズ)というタイトルの漫画をつくっている。

 これはなんというか、こんなふうに書くのはこそばゆいけれど、ぼくなりのささやかな近代へのレクイエムのような、そんなものなのかもしれないともだんだんと思えてきた。

 

奇想漫画家・駕籠真太郎のインスタ連載漫画「GOZ」

ペリーの黒船から関東大震災にいたる日本近代史の歴史SF。97年前、関東大震災が発生した9月1日からインスタグラムにて連載開始。地震発生時刻の11時58分に毎日1コマ〜数コマが投稿される。左図は最初のページで、いきなり日露戦争の戦闘シーンから始まるのだが、それはある研究所の一室で眠る少女たちの夢の中の出来事(?)であったことが明かされる…。「GOZ」とは…。

 

 されど牛頭天王は死なない。異神が消えたなんて、とんでもない。ことほどさように、そこかしこあちらこちらに影向跋扈していると言ってもいいほどだ。香保総匠のOTASIS「となりのヒトラー」というタイトルネーミングを拝借して、そのオントロジーは、さしずめ「となりの異神」といったところだろうか。大人たちにはトトロが見えないように、ご立派な近代人たちには異神は見えないのである。

 山本ひろ子は『異神』の牛頭天王論を次のように締めくくっている。

 

いかなる忌避と禁遏に遭遇しようとも、この微細にして膨大な旅人の群れは、決して死に絶えることはない。新しい疫霊に変異して逆襲するときを窺い、一時沈黙しているだけなのだから。いかなる人間の抑止力・文明の対抗策も、彼らを根絶やしにすることはできないだろう。

 

 この文体がまたシビレる。たまらない。まったく同感だ。ぼくはいつだって、維新より異神派。勇ましい明治維新がみんな好きなのも分かるけれど、異国を出自とするぼくとしては妖しくもしたたかな中世異神こそ大切にしたい。山本ひろ子の「異神の会」こそ、ずっとずっと応援したい。

 

左:山本ひろ子『異神』(平凡社) ブックデザイン*中垣信夫

右:山本ひろ子『変成譜』(春秋社) ブックデザイン*戸田ツトム

『異神』の企画者は網野善彦『異形の王権』や『日本架空伝承人物事典』など名著を担当した平凡社の内山直三。だが内山が急逝し、二宮隆洋が編集を引き継いだ。写真班には内藤正敏と荒川健一が加わった。二宮は、90年代の人文書ジャンルの一時代を築いたとも噂される傑物で、『西洋思想大事典』「ヴァールブルク・コレクション」など平凡社でおよそ200点を刊行。2012年に逝去したさい、中垣伸夫、鈴木一誌、戸田ツトムらが講師を務めるミームデザイン学校は「編集者・二宮隆洋がつくった本──1980-90年代の日本のブックデザイン」を企画した。右図『変成譜』のブックデザインを担当した戸田ツトムは2020年7月21日逝去、享年69歳。

 

◇おまけ 「たくさんの牛頭天王」コレクション

『祇園信仰事典』収録図版より

奈良・春日大社蔵 牛頭天王曼荼羅図

京都・妙法院蔵 神像絵図 牛頭天王部分

右:奈良・金峯山寺蔵 吉野曼荼羅図 牛頭天王部分

左:奈良・西大寺蔵 吉野曼荼羅図 牛頭天王部分

右:奈良・談山神社蔵 絹本著色大威徳明王像 『祇園信仰事典』p39より

左: ハンビッツ文化財団蔵 ヴァジュラバイラバ 『祇園信仰事典』p40より

佐賀・素我神社蔵 牛頭天王像

京都・松尾神社蔵 牛頭天王半跏像

左:愛知・興禅寺蔵 牛頭天王坐像 右:岩手・陸前高田 牛頭天王像

大阪・中仙寺蔵 牛頭天王坐像

大阪・太平寺蔵 牛頭天王坐像

左:島根・鰐淵寺蔵 牛頭天王坐像

中央:愛知・久麻久神社蔵 牛頭天王立像

右:京都・朱智神社蔵 牛頭天王立像

奈良・光堂寺蔵 天部形立像

 

Info


⊕アイキャッチ画像⊕

∈山本ひろ子『異神』(平凡社)

∈山本ひろ子『中世神話』(岩波書店)

∈鈴木耕太郎『牛頭天王信仰の中世』(法蔵館)

 

 

⊕多読ジム Season03・夏⊕

∈選本テーマ:幼な心へ

∈スタジオポテチ(宮野悦夫冊師)

∈3冊の関係性(編集思考素):二点分岐

 

       ┌────『中世神話』
 『異神』──┤
       └────『牛頭天王信仰の中世』

 

 

⊕著者プロフィール⊕

∈山本ひろ子

1946年、千葉県市川市生まれ。幼い頃から母子家庭で育った。親戚ともほとんど没交渉で孤立無援の母娘を実家の前の家に住む”前島のおじさん”こと前島林景が後見者的存在として支えた。早稲田大学第一文学部史学科中退。1970年、兵藤裕己、川田順造らの寺小屋教室に参加し、中世日本の神々について研究。フェリス女学院大学非常勤講師などをへて、和光大学表現学部教授。専門は日本宗教思想史。大学では、日本の思想・文化・宗教をテーマに原典購読の一方、花祭、土佐、出雲、諏訪などでフィールドワークを展開。2017年3月末日退職し、同大学名誉教授に。「硬派」を自認しており、「こわい」と言われるとなぜか嬉しくなる。「一学徒」がモットーで、かつて学んだ私塾「寺小屋教室」の精神を汲み、2007年に研究室OBが立ち上げた成城寺小屋講座主宰。著書に『変成譜』(春秋社→講談社学術文庫)、『中世神話』(岩波新書)、『異神』(平凡社→ちくま学芸文庫)、『大荒神頌』(岩波書店)など。高橋悠治と親交が深く、『変成譜』の刊行にともない、草月ホールにて中世宗教論に基づく音楽劇「狐」で共演。また、『季刊Intercommunication No.9 特集音楽=テクノロジー』(NTT出版株式会社、1994年)にて「失われた音,甦る音――変成する音の空間と時間」というテーマで対談している。
そのほか編著に『祭礼―神と人の饗宴』(平凡社)、『民俗と仮面の深層へ―乾武俊選集』(国書刊行会)など。和光大学総合文化研究所と諏訪信仰研究会スワニミズムの共同研究プロジェクトが結実した『諏訪学』(国書刊行会)の執筆陣には原直正、宮嶋隆輔、芥川隆信など成城寺小屋講座のメンバーも名を連ねた。現在、成城寺小屋講座発行「屋根裏通信」にアイヌのエッセイを連載中。

 

∈鈴木耕太郎

1981年、群馬県前橋市生まれ。立命館大学文学部の学部二回生時に先輩から提案されて、牛頭天王信仰の研究を始める。2017年、立命館大学大学院文学研究科日本文学専修博士後期課程修了。院生一年目に福田晃の教授最終年度の講義を受講し『神道集』を輪読、国文学研究の真髄を知る。佛教大学の斎藤英喜の研究会にも参加。京都西山学園の非常勤講師などを経て、郷里・群馬に戻り、高崎経済大学地域政策学部地域づくり学科講師を務める。山本ひろ子の提唱した「中世神話」の視座から牛頭天王信仰に中世から近世の牛頭天王信仰を研究をしている。
本書のほか千田稔らとの共編著『京都 まちかど遺産めぐり』(ナカニシヤ出版)がある。配偶者は児童文学の研究者であり、論文「戦後祇園祭認識の変遷ーー月刊『京都』、絵本『火の笛』から考える」(2016)を共同執筆した谷本由美。現在、愛娘の葵葉ちゃん、猫の天満とともに一匹と三人で暮らしている。百歳の大叔母・片野久子も、地元・前橋市文京町の牛頭天王信仰を調査し、まちの歴史絵本を自費出版した。


  • 金 宗 代 QUIM JONG DAE

    編集的先達:Seigow・M. 最年少典離以来、幻のNARASIA3、近大DONDEN、多読ジム、KADOKAWAエディットタウンと数々のプロジェクトを牽引。先鋭的な編集センスをもつエディスト副編集長。インスタグラムにて近代史SFマンガ「GOZ」連載中🔥🔥https://www.instagram.com/goz_official/🔥🔥🔥🔥