サイエンティスト・迫村勝と井ノ上シーザーのふたたび神田酔談

2022/03/18(金)18:32
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豪徳寺がAIDAのクライマックスを迎えている時、迫村博士と井ノ上シーザーは昼飲みをしていた。2022年3月5日(土)、場所はまたもや神田の居酒屋である。

 

神田らしい料理で サイエンティスト迫村勝の回答(前編)(2019/10/18)

UFOは”ユー・エフ・オー” サイエンティスト迫村勝の回答(後編)(2019/10/21)
冷酒が飛び散るジンギスカン焼肉屋にて サイエンティスト・迫村勝との対話(2020/02/23)
イシス人はコロナ禍を宇宙人の陰謀と見立てるか(2021/01/14)
▲忘れられた頃に現れ出る神田酔談の記事群。オカルトの動向とともに迫村博士のヘアスタイルの変遷にも注目だ。

 

説明がつかないというのは「納得」が保留されたということである。そこで、その行き場のない納得を別のところ(ヴァーチャルなステージ)に求めてスピリチュアルな旅をしたくなる。そして深みにはまってもいく。(千夜千冊#1771『神秘主義』)

 

迫村によると、最近は面白いスピ系(スピリチュアル系)のネタがない。オカルト業界は変質し、都市伝説はつまらなくなってきている。超常世界と俗社会の境界を跨いでいた迫村だが、近頃はその境界を遠目に見るようになった。

 

▲脱俗化が進む迫村博士。大学の雑務が落ち着きホッとしている。

 

最近は新興宗教も興っていないのでは、と井ノ上。インフルエンサーとオンラインサロンが、スピもオカルトも宗教も食っているのかもしれない。スマホが、パソコンや電話やカメラの機能を集約していったことと対応するのであれば、スマホがフェティッシュな質感を削いだように、明快さを標榜するインフルエンサーやオンラインサロンは、超常的なものの影をなきがごとくにする。影はあるに決まっているのだが。

 

われわれは、なぜかこの10年というもの、いやパソコンが登場してからの、インターネットが出現してからのわれわれが体験していることを、どうも検証できない病気にかかっているようだ。そろそろ症状を自己申告したほうがいいのではあるまいか。(千夜千冊#049夜『デジタル・マクルーハン』より)

 

居酒屋に入ってから3時間が経った。ビールとホッピーと冷酒を飲み干した。豆腐サラダを頼んだ迫村に対し、唐揚げや豚肉の焼物と、肉物ばかりオーダーする井ノ上。イシスで出会ってから十数年、仙人化する迫村と、相変わらず肉食動物な井ノ上であった。

 

 

  • 井ノ上シーザー

    編集的先達:グレゴリー・ベイトソン。湿度120%のDUSTライター。どんな些細なネタも、シーザーの熱視線で下世話なゴシップに仕立て上げる力量の持主。イシスの異端者もいまや未知奥連若頭、守番匠を担う。

コメント

1~3件/3件

川邊透

2025-07-01

発声の先達、赤ん坊や虫や鳥に憑依してボイトレしたくなりました。
写真は、お尻フリフリしながら演奏する全身楽器のミンミンゼミ。思いがけず季節に先を越されたセミの幼虫たちも、そろそろ地表に出てくる頃ですね。

川邊透

2025-06-30

エディストの検索窓に「イモムシ」と打ってみたら、サムネイルにイモムシが登場しているこちらの記事に行き当たりました。
家庭菜園の野菜に引き寄せられてやって来る「マレビト」害虫たちとの攻防を、確かな観察眼で描いておられます。
せっかくなので登場しているイモムシたちの素性をご紹介しますと、アイキャッチ画像のサトイモにとまる「夜行列車」はセスジスズメ(スズメガ科)中齢幼虫、「少し枯れたナガイモの葉にそっくり」なのは、きっと、キイロスズメ(同科)の褐色型終齢幼虫です。
 
添付写真は、文中で目の敵にされているヨトウムシ(種名ヨトウガ(ヤガ科)の幼虫の俗称)ですが、エンドウ、ネギどころか、有毒のクンシラン(キョウチクトウ科)の分厚い葉をもりもり食べていて驚きました。なんと逞しいことでしょう。そして・・・ 何と可愛らしいことでしょう!
イモムシでもゴキブリでもヌスビトハギでもパンにはえた青カビでも何でもいいのですが、ヴィランなものたちのどれかに、一度、スマホレンズを向けてみてください。「この癪に触る生き物をなるべく魅力的に撮ってやろう」と企みながら。すると、不思議なことに、たちまち心の軸が傾き始めて、スキもキライも混沌としてしまいますよ。
 
エディスト・アーカイブは、未知のお宝が無限に眠る別銀河。ワードさばきひとつでお宝候補をプレゼンしてくれる検索窓は、エディスト界の「どこでもドア」的存在ですね。

堀江純一

2025-06-28

ものづくりにからめて、最近刊行されたマンガ作品を一つご紹介。
山本棗『透鏡の先、きみが笑った』(秋田書店)
この作品の中で語られるのは眼鏡職人と音楽家。ともに制作(ボイエーシス)にかかわる人々だ。制作には技術(テクネ―)が伴う。それは自分との対話であると同時に、外部との対話でもある。
お客様はわがままだ。どんな矢が飛んでくるかわからない。ほんの小さな一言が大きな打撃になることもある。
深く傷ついた人の心を結果的に救ったのは、同じく技術に裏打ちされた信念を持つ者のみが発せられる言葉だった。たとえ分野は違えども、テクネ―に信を置く者だけが通じ合える世界があるのだ。