江口寿史 前進、前進また前進【マンガのスコア LEGEND44】

2022/02/05(土)08:40
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 江口寿史は「マンガ家」です。

まずはこの一点は押さえておきたい。

しかし、それと同時に、やはり当代一流の絵師でもあります。

以前、井上雄彦を「絵師」と表現しましたが、マンガ界で最も「絵師」らしい「絵師」といえば、やはり江口寿史ということになるでしょう。

 

 しかし、井上雄彦と江口寿史とでは、性質的にかなり違うところもあります。

 巨大なキャンパスに、いきなり大胆に筆を走らせたり、アタリも取らずに黒板にチョークでガンガン描きつけていく井上先生とは対照的に、江口先生は、描いては消し、描いては消し、を無限に繰り返しながら、疲労困憊しながら描いていくようなタイプなのですね。

 江口寿史の絵は、「もうこの線以外ありえない」というぐらい正確な線が、寸分の狂いもなく引かれていて、隅から隅まで全く隙がないのですが、一本の線が一発では決まらず、まるで溝口健二や相米慎二のように何十回もリテイクして、ようやく仕上げている、といった風情です。

 もっとも、江口先生も実際にはライブペインティングのようなこともやっていますし、一発描きも、やろうと思えばできる人なのでしょう。しかし、それは江口寿史の本来のスタイルではないように思います。

 

 とにかく徹底的に作品を彫琢していくタイプの作家、それゆえ、スピードと量産を旨とする我が国のマンガの生産体制とは、真っ向からぶつかってしまう作家、それが江口寿史です。

 今回は、そんな江口寿史の「マンガ」作品の中から、とりわけ傑作の誉れ高いこの作品を模写してみることにしました。

 

江口寿史「くさいはなし」模写

(出典:「COMIC CUE Vol.1」イースト・プレス)

 

 前回の安彦良和に味を占めて、またしても筆ペンを使ってみました。最近の江口先生は筆ペンをよく使われているようですが、この頃は、まだ【ミリペン】ぽいです。

 予想はしていましたが、大変でしたね。何度描き直してもうまくいかず絶望的な気分になりました。

 二コマ目や三コマ目の【人物アップ】など、全然違う顔になってしまいましたが、もうどうしようもありません。江口寿史のタッチは全くごまかしが効かないですね。うまく描けないところをテキトーな線でごまかす、という、いつも使っている手が全く使えませんでした(笑)。

 そして当然のことながら、【もの凄く時間がかかりました】。これまでの模写の最長記録かも。全コマ、こんな調子で描いていたら、そりゃ原稿落ちるわ。

 

 ちなみに今回、模写の元ネタに使った「くさいはなし」は8ページの掌編で、初出は1994年「COMIC CUE」(コミック・キュー)の創刊号。江口寿史が責任編集をした伝説の雑誌です。第二号には「絶食」(原作・楳図かずお)、第五号には「岡本 綾」が掲載されていますが、さすがに「CUE」に発表する作品は気合いが入るのか、どれも粒ぞろいの傑作です。

 

■努力の人

 

 さて、毎度おなじみビギナー向けのバイヤーズガイドとしてオススメしたいのは『青少年のための江口寿史入門』(角川書店)です。

 上記「CUE」掲載の三作も収録されたお買い得品。とにかく江口寿史といえばイラストレーターだと思っている人には、まずはこの作品集で「マンガ家・江口寿史」の底力を知ってほしいところです。

 江口は、四ページとか八ページとかの掌編ギャグで威力を発揮するタイプで、このジャンルでは他の追随を許しません。『寿五郎ショウ』『なんとかなるでショ!』『爆発ディナーショー』の「ショー三部作」は傑作の宝庫。上記『青少年のための江口寿史入門』は、これら収録作を中心に編まれた傑作選です。

 

(江口寿史『寿五郎ショウ』双葉社、『なんとかなるでショ!』角川書店、

『爆発ディナーショー』双葉社、『青少年のための江口寿史入門』角川書店)

 

 

 

 ところでマンガ家としての江口寿史は、決して作品の多い方ではありません。

 その上、締切りも守れず、よく落とすなどという話から、なんとなく、ナマケモノなんじゃないかと思っている人もいるかもしれません。

 しかし、全然そんなことはないんですよね。デビュー以来の飛躍的画力向上は、ひとえに努力と研鑽のたまものと言う他ありません。

 確かに、ふつうに毎日描き続けていれば、誰でも自然に絵は上手くなっていきます。しかし江口のそれは、決してそういうレベルのものではないのです。

 しかも画風が確立し、評価も高まって以降も、どんどん進化しているのは尋常なことではありません。

 江口寿史の絵って、一見すると、もうとっくの昔に完成されてしまっているように見えますが、実はよくよく見ると、時を経るごとにマイナーチェンジを繰り返し、少しずつ新しい技法を取り入れているのですね。わずかずつでも前進し続けることをやめていません。

 いわゆる「絵師」と言われるような人でも、キャリアを重ねていくうちに、だんだん自分の型にはまってきて、みずみずしさが失われ、劣化していくケースは珍しくないのですが、江口寿史は、今なお一ミリでも先に進むべく、常に模索とブラッシュアップを続けているのです。

 画業四十有余年、齢六十半ばにして、作家的ピークが「今」というのは、まことに驚嘆すべきことです。

 

■マンガを読むマンガ家

 

 彼は自らの描く美少女について、「自分の好きなタイプの女の子」を描いているというよりは「自分がなりたい女の子」を描いている、と答えています。

 恋愛の対象ではなく、一人称としての「女の子」なのですね。あえて言えば女装男子のメンタリティに近いのでしょうか。(もっとも江口は「女装に興味ありますか」との質問に対して「ボクはギャグマンガ家だから自分を客観的に見れちゃうので、それはないですね」と答えています。)

 いわゆるアキバ系の作家の描く美少女と江口寿史の描く美少女の雰囲気が、微妙に異なって見える理由もそのへんにあるのでしょう<1>。男性目線ではなく女性目線なのですね。江口寿史に女性ファンが圧倒的に多いのも納得です。

 そうした特徴をよく示しているのが、江口美少女のファッションセンスの高さです。美少女の「顔」にものすごく力が入っているのは当然のことながら、それに勝るとも劣らない勢いで、彼女たちの着ている服や、その着こなし方、身につけている小物に、こだわりぬいているのがわかります。

 それも、いかにもファッション誌からネタを取ってきたような有り合わせのものではなく、ふつうに街を歩いているイケてるオシャレな女の子の格好をしているのですね。ちゃんと「今の子」のスタイルがわかっているのです。

 

長年のあいだ手がけてきた「リアルワインガイド」の表紙

 

 そうした、「今」に対するセンサーの確かさはマンガに対しても感じられます。

 江口寿史って、実はマンガを結構、読む人なんですね。

「マンガを読むマンガ家」ということでは、いしかわじゅんと双璧をなすぐらい、よく読んでいます。なかなかの目利きでもあって、彼の勧めるマンガには高いセンスが感じられます。

 マンガ家になる人って当然、もともとマンガが好きだからマンガ家になるわけですが、プロになると、だんだん読むことから遠ざかる人も珍しくありません。自分のスタイルができてしまうと、もう新しいものを取り込もうという意欲も薄れていくのですね。

 江口寿史が1992年、『爆発ディナーショー』で文藝春秋漫画賞を受賞したとき、審査委員の加藤芳郎氏が「久々の大型新人」と述べたことが笑い話となっていますが、ベテラン作家なんてそんなものです。

 江口寿史のすごいところは、「マンガの今」をちゃんと見据えているところです。それが、ひとたび確立してしまった自分のスタイルに安住することなく、常にチューンナップし続ける彼の姿勢にも通じているように思います。

 

■「絵」に無関心だった頃

 

 もともと江口寿史は、純然たるギャグマンガ家でした。

 デビューは1977年、「少年ジャンプ」です。

 当時は山上たつひこショックがマンガ界全体に波及し、次々と新しいタイプのギャグマンガ家が誕生しつつあった時代でした。江口自身もはっきり認めているように、彼は山上チルドレンの一人、そして結果的にその最良の後継者となった人です。

 この頃の「ジャンプ」は、一部で「本宮ひろ志マガジン」と揶揄されるぐらい本宮カラーの強い、泥臭く汗臭い誌面で充満していたのですが、同時に『ど根性ガエル』(吉沢やすみ)や、『トイレット博士』(とりいかずよし)といったギャグものも、雑誌の柱となるような人気を誇っていました。

 そんな中、山上ショックは、この雑誌にも及んできます。

 新しい風に促されるように、小林よしのり、コンタロウ、秋本治(デビュー時は「山止たつひこ」)といった才能あるギャグマンガ家が次々と誕生していったのです。

 江口寿史は高校卒業後、初めてペンを使って描いたマンガが、いきなり入選。これは、現在の江口の作風とは異なる純然たるストーリーマンガでした。そして同じ年に赤塚賞に応募したギャグマンガで再度入選しています。そして、この二作品とも本誌に掲載され、つづいて発表した短編ギャグが好評だったため連載化。最初のヒット作となった『すすめ!!パイレーツ』です。

 

 全く苦労時代のない、うらやましいほどの順風満帆ぶりです。

 ほとんど修業時代のなかった江口は、デビュー時、ホワイト修正もトーン削りも知らず、初めてついたアシスタントに教えられながら描いていたそうです。

 とにかく初期の江口寿史は絶好調。読者の反響もよく、過酷な週刊連載も、楽しみながら乗り切っていたようです。後の、生みの苦しみと格闘しながら呻吟する江口寿史のイメージはまだありません。また、「絵師」としても全く目覚めていませんでした。

 

『パイレーツ』の頃の江口の絵は、コンタロウや田村信など当時の普通のギャグマンガのタッチとさほど変わらず、絵の巧拙以前に、そもそも絵に対するこだわりがあるようには見えませんでした。とにかく、この頃の江口は、「絵」は二の次で、あくまで「マンガを描く」ことに勢力の全てを傾注しています。こんな人が、後年ああいうタイプの人になってしまうとは誰が想像したでしょう。

 

(江口寿史『すすめ!!パイレーツ』②④⑦)

絵に素朴さが残る頃

 

 彼自身の語るところによると、江口が絵の方向に意識を向け始めたきっかけは、大友克洋高野文子などのニューウェーブの登場だったと言います。

 とりわけ大友の作品集が立て続けに刊行された79年が一つの転機となりました。当時の江口は、まだ『パイレーツ』の連載中でしたが、この作品の後半期に至る頃から、カットの端々に、イラスト的にソフィスティケイトされたセンスが垣間見られるようになってきます。

 しかし、まだちょっと手が追いついていない感じで、見ていて危なっかしいところがないでもありません。江口寿史は、しばしば、自分はもともと絵が上手い方ではなく、努力して上手くなったのだ、といった発言をしています。半分は謙遜もあるでしょうが、半分は本当のことでしょう。

 

 

■江口寿史=「落とす人」伝説の始まり

 

 そして江口の妥協を許さない完璧主義がもたらした一つの帰結として、「原稿を落とす」ということがしばしば起こるようになります。

 とにかく江口寿史といえば、「落とす人」の代名詞として、この世界ではすっかり定着してしまいましたが、この傾向は、80年代初期の『ストップ!!ひばりくん!』あたりから顕著になってきたものです。

 今でこそ、隔号、月イチなどの変則連載、不定期連載など、珍しくもなんともなくなりましたが、80年代半ば頃まで、週刊連載で穴を開けることなど絶対あってはならないことでした。

 マンガ家は親の死に目にも会えない、などということが、まことしやかに囁かれていた時代です。そんな時代に江口先生はヘーキで(かどうかわかりませんが)原稿を落としまくっていたのです。

 

 落としてしまう原因のほとんどは「絵」だったようです。「ネーム自体は早かった」とも言われています。

 当時の江口番だった小学館の江上英樹氏によると

「オレがガク然としたのは、”パパリンコ物語”の表紙の絵。顔のアップのやつで、下描きの輪郭を描いてたの。それで、次の日また仕事場に行ってみたら、まったく同じところの輪郭をなぞってたの。ちょっと線が濃くなっただけ。」(『なんとかなるでショ!』角川書店)

 

 またアシスタントの話では

「その間、先生はどんな様子かというと、一睡もせずにずーっと机の前に座っているのです。コーヒーを入れたときなどに先生の手元をのぞいてみると、何かわけのわからないものを真っ黒になるまで描き重ねていたりしていました。」(『総特集江口寿史』河出書房新社)

とあります。

ちょっとコワイ話ですね。

 

 とにかく、絵に対する理想のイデアがとんでもなく高くなってしまった江口寿史は、まるで身動きの取れない体になってしまいました。

 これではとうてい「マンガ」など描けるものではありません。

 言うまでもなく、マンガとは、コマの連続で物語を進めていく表現形式です。そのため作家には「素早く、大量に」絵を描く技能が要求されます。

 とりわけ日本のマンガは、その方向に徹底的に進化していきました。ほんのちょっとした短いお話を作るだけでも、100や200のカットは平気で描かなくてはならないのです。一枚の絵を仕上げるのに何年もかけたりできるファインアートの世界と、そこが大きく違うところです。

 

 何度も原稿を落とした挙句、蒸発事件まで起こしてしまった江口寿史は、ついに編集部から見限られ、トップクラスの人気を誇っていた『ストップ!!ひばりくん!』を、打ち切り同然の形で終わらせてしまいます。

 

(江口寿史『ストップ!!ひばりくん!①』集英社

『同・コンプリート・エディション③』小学館クリエイティブ)

江口寿史・最大のヒット作「ストップ!!ひばりくん!」

初刊本と後のリニューアル版とで絵柄の進化がわかる

 

 その後、月刊誌「フレッシュジャンプ」に活動の場を移した江口は、84年、ボクシングマンガ『「エイジ」』の連載を開始。それまでの江口の作風を一新するような、本格的なストーリーマンガでした。

 この作品は、江口寿史の中で、どれぐらいの規模のものが想定されていたのか分かりませんが、ボクシングものなら、それなりの尺がないと様になりません。

 今の私たちの眼から見ると、江口寿史が何十巻もあるスポ根マンガを描けるとはとうてい思えませんが、当時の江口にしてみれば、「やってやれないことはない」という気持ちはあったのでしょう。

 しかし、この頃の江口は、すでに大量生産方式の長編マンガのスタイルには適合できない体になっていました。

 結局『「エイジ」』の連載も半年ほどで途絶えてしまい、単行本は1巻しか出ませんでした。

 

『「エイジ」』や『パパリンコ物語』(「ビッグコミックスピリッツ」)といった連載ものを次々と放棄していった80年代半ば以降の江口は、その仕事の中心をイラストの方へ徐々にシフトしていくことになります。

 彼が80年代初頭に確立したタッチは、なんといっても唯一無二のものであり、イラスト業界から引く手あまたになるのも無理はありません。そうした依頼仕事をこなしながら研鑽を続けるうちに、その画力には、さらに磨きがかかることになります。

 

(街カードフェスタ池袋イベントポスター)

近年はイベントや広告の仕事も数多くこなす

 

(亀和田武『60年代ポップ少年』小学館、山上たつひこ『枕の千両』フリースタイル、

『はじめて投票するあなたへ』ブルーシープ)

書籍カバーも多数

 

「絵」に関してはこのような好循環をつづけていく一方で、ますます「マンガ」が描けなくなっていく江口寿史は、それでもマンガ家であることを辞めようとはしませんでした。

 新しい連載を次々と立ち上げては、落としまくった挙句に途絶してしまう、ということを繰り返すようになります。

 しかしその一方で、「月刊ASUKA」や「漫画アクション」などで連載されていた短編連作ものは、休載に次ぐ休載を繰り返しつつも、地道に描き継がれていきました。

こうして江口寿史は短編作家としてのスタイルを確立していくことになります。

 

■模索と逡巡

 

 しかし、そんな江口寿史の前に、恐るべき新人が立ちはだかります。

 80年代末の吉田戦車の登場でした。

 彼の出現が当時のマンガ界にどれほど大きな激震を引き起こしたかについては、すでに一章を割いて述べたところです。その際に引用した江口のセリフ「あの時、吉田戦車の名が世間に与えた斬新ぶりのインパクトは例えば――「新宝島」で登場した手塚治虫の名にも匹敵するのじゃないかしら」とは、まさに彼自身の生々しい実感だったのでしょう。

 実作者であると同時に優れたマンガ読みでもある江口は、吉田の登場によって、自分がこれまで描いてきたようなタイプのギャグが決定的に古くなってしまったことを冷静に感知してしまいます。

 かといって、不条理ムーヴメントの流れに掉さすことも、自分の作家的資質として無理がある。

 それでは自分にできることは何なのか。80年代末期「漫画アクション」誌上に連載された『爆発ディナーショー』は、それに対するアンサーを求める悪戦苦闘の軌跡でした。

 この連載、例によって休載に次ぐ休載だったようですが、ここで江口は様々なタイプのギャグを模索していきます。

 のちの業田良家を思わせるような自動人形の悲哀を描いた「KV-201XR」や、ホームドラマのテイストを持ち込んだ「しりとり家族」など、ギャグの中にもふと情感を揺さぶるような、奇妙な味わいを感じさせる作品も現れるようになります。

 

 そして、こうしたテイストの路線が最高度に結晶化されたのが、先にも述べた「COMIC CUE」所載の「くさいはなし」であり「岡本 綾」です。

 個人的には、今回、模写で使わせていただいた「くさいはなし」が江口の最高傑作ではないかと思いますが、最近刊行された『日本短編漫画傑作集』(小学館)には「岡本 綾」が選ばれていましたね。この選集、編者の中に江口先生ご本人もいますので、ご自身も納得のチョイスなのでしょう。

 

■いまだ現役

 

 こうして「マンガ家」としての矜持を決して手放さなかった江口寿史ですが、さすがにここ数年は、マンガの実作から少し遠ざかっているようです。

 しかし「絵師」としての江口寿史の勢いは、相変わらず衰えるところを知りません。

 とくにゼロ年代に入ってからの、さらなる上昇には目を見張るものがあります。近年、立て続けに画集が編まれ、売れ行きも非常に良いと聞きます。

 大規模な画業集成となった『KING OF POP』(2015)から、三年とおかず『step』(2018)を刊行。このとき御年62歳の江口先生は、

「ステップというのはまあ、おわかりかと思いますが、ホップ、ステップ、ジャンプのステップです。文字通りの意味で。これから迎える70代に向けての更なるジャンプの前に1歩下がって間合いを計るという意味あいもあります。」

と高らかに宣言しています。

 

 そして2018年より始まった大規模巡回展「彼女」は現在も継続中。それに合わせた画集も刊行されました。この巡回展、この三月には長野に回るようです。江口寿史の「今」を知る格好のチャンスをお見逃しなく。

 

(江口寿史『step』河出書房新社、『彼女』集英社インターナショナル)

 

◆◇◆江口寿史のhoriスコア◆◇◆

 

【ミリペン】73hori

基本的に均一な線ですが、ペンを走らせる速度で多少のタッチが出ます。

 

【人物アップ】60hori

元の絵は女子大生ぐらいに見えるのですが、模写してみると中学生みたいな顔になってしまいました。仕方がないのでパソコンに取り込んでから、ちょっとズルして修正を…。山本直樹先生の言う「福笑い」で目の高さを少し上にあげてみたところ、多少近くはなりました。

 

【もの凄く時間がかかりました】90hori

二コマ目の顔を小さく描きすぎたことに気がついた時には、もう遅く、これ以上描き直す気力もないので、元絵にない部分まで描く羽目になりました。

 

 

  • ◎●ホリエの蛇足●◎●
  •  

<1>

萌え系とは少しベクトルの違う江口寿史ですが、一つだけ萌えに大きな影響を及ぼしているところがあります。

実は、ギター少女萌えのルーツが江口寿史なんですね。

音楽好きの江口先生は、『パイレーツ』『ひばりくん』など最初期の頃から、頻繁にギター少女を描いていました。これがものすごい勢いで萌え系に拡散していったのはご存じのとおりです。

(YAMAHA「Music Revolution U23」ポスター)

 

「マンガのスコア」バックナンバー

 

アイキャッチ画像:小林信彦『極東セレナーデ』フリースタイル


  • 堀江純一

    編集的先達:永井均。十離で典離を受賞。近大DONDENでは、徹底した網羅力を活かし、Legendトピアを担当した。かつてマンガ家を目指していたこともある経歴の持主。画力を活かした輪読座の図象では周囲を瞠目させている。