この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

リモート・ワークにディスタント・ラーニング?
On Edit, On Line.
はなからイシスはそうだった。とっくの20年前から走っていた。
(イシス編集学校 20周年特別記念ページより)
6月1日に20周年を迎えたイシス編集学校。
20周年の特設ページは、師範代メッセージと社会とISISとをを束ねたクロニクル仕立てだ。
周年後、最初の伝習座は、20周年の大感門前の最後の伝習座でもあった。
この瀬をどうこえるかは、もはや用法3・4へ進む[守]後半をどう稽古するかだけにとどまらない。
NEXT ISISの瀬戸をまたぐプロフィールとなる。
38のお題札と21の教室名が踊る本楼スタジオのしつらえに、方法と教室のミームがノームとなり飛び交う。
「編集学校の型は、情報生命体の突然できた濃い結びつきのよう」
佐々木局長は20年を、生命の誕生や歴史、文化までリバースしつつ語り直す。
例えば038番は細胞卵割、032番は枕草子といったように。
新型コロナと自粛で始まった45期。20周年をターゲットに定めれば、NEXT ISISが見えてくる。
「子供たちも、新型コロナの中、学校が全てではないという裸の王様が見えてきている。では、今イシスに集う意味なんだろうと。この偶然を必然に編集し、20周年は自由のお祭を実現したいと思っています」
5月頭の伝習座で「今後プロフィールが失われるのではないか」という鈴木康代学匠は、6月6日の今をどう捉えているのか。
「ZOOMを使っているだけでは編集ではない」
飲み会も筋トレも帰省も、オンラインで可能になっている。だがこれではオンラインをツール、機能、ファンクションでしか捉えていない。
「オンラインはモーメントだ」と康代学匠はいう。
「アフォーダンスや逆照射、内分泌、内側が外側に向かうなど、仮説領域に自分を置くといい」
前回の伝習座での松岡校長の言葉を受けて、Zoomを機能だけで扱わない、「編集を起こすための伝習座とは」というお題を、康代学匠はこの座に課した。
動的ブラウザを背負う場にするにはどうするか? キーワードは「想像力」だ。
「本楼も松丸も、MUJI BOOKSも、DONDENも、どれ一つ取っても同じではない。画面越しに参加していると思わないで、想像力を発揮して、今日の伝習座をエディットして欲しい」
いざ、NEXTISISへ。
45[守]伝習座、「康代劇場」の開幕だ。
上杉公志
編集的先達:パウル・ヒンデミット。前衛音楽の作編曲家で、感門のBGMも手がける。誠実が服をきたような人柄でMr.Honestyと呼ばれる。イシスを代表する細マッチョでトライアスロン出場を目指す。エディスト編集部メンバー。
コメント
1~3件/3件
2025-06-10
この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。
2025-06-10
藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。
2025-06-06
音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。