発声の先達、赤ん坊や虫や鳥に憑依してボイトレしたくなりました。
写真は、お尻フリフリしながら演奏する全身楽器のミンミンゼミ。思いがけず季節に先を越されたセミの幼虫たちも、そろそろ地表に出てくる頃ですね。

■2021.06.21(月)
どうも私は何かについて考え込むと、寝ても覚めてもそのことだけを思い続ける傾向がある。気分転換も苦手だ。新奇さよりも深遠さの方へ好奇心のセンサーが導かれる。要するにオタク気質なのだろう。
そういえば[守]の学衆時代は、お題がメールボックスへ届くやサッと斜め読みして、その問いを胸に抱きながら日常を過ごす感覚が好きだった。与えられた問いがフィルターのように効果して、同じ世界が違って見えることが面白かったのだと思う。
不思議さや不可解さ、あるいは不確実さの最奥部に置かれても苛立つことなく耐える能力のことを、ジョン・キーツは「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼んだ。「負の包摂力」と松岡校長は意訳している。
ふむふむ。この諦念とも呼べる達観的受容力を「編集は不足から生まれる」という文脈で理解することはできるのだが、「ネガティブ」という表現はキーツほどの浪漫や感傷を持ち合わせていない者にとっては少々香りが立ちすぎて共感しにくい。ここはイシスらしく「エディティング・ケイパビリティ」と推敲提案してみたい。
詩人はあらゆる存在の中で、最も非詩的である。というのも詩人はアイデンティティを持たないからだ。詩人は常にアイデンティティを求めながらも至らず、代わりに何か他の物体を満たす。
(ジョン・キーツ『詩人の手紙』より)
もし詩人やオタクが風変わりな存在感を漂わせるとしたら、それは彼らが何者かになろうとしながらもナニモノかによって満たされているからではないだろうか。彼らにとって「存在」は凸ではなく凹の像を描くのだ。
そこに「わたし」という穿たれた器(あるいは型)だけがあって、そこへ様々な情報が出入りする。その「うつろい」があまりにも美しくて愛しくて、彼らは我を捨ててでも眺め続けていたいのだ。
■2021.06.22(火)
人が深い集中を保てるのは15分程度なのだという。
私は寡聞にしてこの情報の典拠を知らないが、まぁそのくらいだろうと体感として思う。だから授業の時間割もテレビの番組表も15分の倍数でコマ割りが構成されているそうだ。そういえば、高い集中力が要請される同時通訳も10〜15分で交代するようにシフトが組まれる。
またこれもよく知られるメトリックだが、話し言葉の場合、聞き手が理解しやすいのは1分あたり300語が目安だそうだ。とすると、対面で情報を伝えるときに相手が受け取りやすい情報量は、およそ3000〜4000語というところが上限になるだろうか。
こうした身体的なメトリックは、ホストロールに立つ者にとって無視できないアフォーダンスをもたらす。上記のような時間や文字量を超える場合は、その過剰さを相殺させるための工夫を講じないことには「もてなし/ふるまい/しつらい」を整えることが出来ないだろう。
『坐の文明論』(矢田部英正/晶文社)によると、「聖なるもの」と「清なるもの」を同じ音韻であらわす日本語の習慣は偶然ではなく「生」の感覚を活かす意識と結びついていた、とあって興味深い。
すなわち「書院造」の様式をリバースエンジニアリングすると、空間の寸法基準を司る装置として「畳」があって、その寸法基準は「坐」の身体感覚をもとに秩序立てられたのだという。
どんなに耳障りの良い崇高なコンセプトを掲げてみても、その空間の中に身を置いたときに、空気の密度や流れによって、生命を活かす空間と萎縮させる空間とを、優れた身体は瞬時に直感するのである。
35[花]の裏舞台では「指南編集トレーニングキャンプ」の準備が始まった。花伝所のしつらいには「生命に学ぶ」というカマエが不可欠なのだとあらためて思う。
■2021.06.24(木)
錬成演習がクライマックスを迎えている。入伝生たちが2週間でタイプした指南の総量は、文字数換算で1人当たり25,000字を超える!
この凄まじい集中と献身に、師範が粘り強く丁寧な指導で応じている。花目付はその一部始終を観察し、観測し、嘆息するばかりだ。
花伝所で行う指南トレーニングは過去期の事例を題材にしたシミュレーション訓練だ。モニターの向こうに生身の学衆さんがいる訳ではないことを、現場叩き上げ系の私としてはもどかしく思っていたのだが、35[花]の熱意と熱量はホントとツモリの界面を活性するには充分過ぎる。
花目付からは、やや別角度からのコメントを週末あたりに届けよう。
■2021.06.27(日)
22:00をもって7週間の式目演習が終了。残念ながら2名が完走できなかったが、質量ともに充実の演習模様だった。次期48[守]での飛躍と開花が楽しみだ。
■2021.06.29(火)
いよいよ35[花]にキャンプ場が開設された。センターラウンジは「常世境」、グループラウンジは「おもかげ座」「うつろい座」とネーミングされている。言わずもがな、入伝式での講義《別紙口傳》が思い起こされる。
今週末のキャンプでは4本のワークが予定されており、そのうち3本については課題が明かされ、1本は伏せられている。
まずは呼吸を整えて、万全のコンディションで式目演習の総仕上げへ臨んでいただきたい。
深谷もと佳
編集的先達:五十嵐郁雄。自作物語で語り部ライブ、ブラonブラウスの魅せブラ・ブラ。レディー・モトカは破天荒な無頼派にみえて情に厚い。編集工学を体現する世界唯一の美容師。クリパルのヨギーニ。
一度だけ校長の髪をカットしたことがある。たしか、校長が喜寿を迎えた翌日の夕刻だった。 それより随分前に、「こんど僕の髪を切ってよ」と、まるで子どもがおねだりするときのような顔で声を掛けられたとき、私はその言葉を社交辞 […]
<<花伝式部抄::第21段 しかるに、あらゆる情報は凸性を帯びていると言えるでしょう。凸に目を凝らすことは、凸なるものが孕む凹に耳を済ますことに他ならず、凹の蠢きを感知することは凸を懐胎するこ […]
<<花伝式部抄::第20段 さて天道の「虚・実」といふは、大なる時は天地の未開と已開にして、小なる時は一念の未生と已生なり。 各務支考『十論為弁抄』より 現代に生きる私たちの感 […]
花伝式部抄::第20段:: たくさんのわたし・かたくななわたし・なめらかなわたし
<<花伝式部抄::第19段 世の中、タヨウセイ、タヨウセイと囃すけれど、たとえば某ファストファッションの多色展開には「売れなくていい色番」が敢えてラインナップされているのだそうです。定番を引き […]
<<花伝式部抄::第18段 実はこの数ヶ月というもの、仕事場の目の前でビルの解体工事が行われています。そこそこの振動や騒音や粉塵が避けようもなく届いてくるのですが、考えようによっては“特等席” […]
コメント
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2025-07-01
発声の先達、赤ん坊や虫や鳥に憑依してボイトレしたくなりました。
写真は、お尻フリフリしながら演奏する全身楽器のミンミンゼミ。思いがけず季節に先を越されたセミの幼虫たちも、そろそろ地表に出てくる頃ですね。
2025-06-30
エディストの検索窓に「イモムシ」と打ってみたら、サムネイルにイモムシが登場しているこちらの記事に行き当たりました。
家庭菜園の野菜に引き寄せられてやって来る「マレビト」害虫たちとの攻防を、確かな観察眼で描いておられます。
せっかくなので登場しているイモムシたちの素性をご紹介しますと、アイキャッチ画像のサトイモにとまる「夜行列車」はセスジスズメ(スズメガ科)中齢幼虫、「少し枯れたナガイモの葉にそっくり」なのは、きっと、キイロスズメ(同科)の褐色型終齢幼虫です。
添付写真は、文中で目の敵にされているヨトウムシ(種名ヨトウガ(ヤガ科)の幼虫の俗称)ですが、エンドウ、ネギどころか、有毒のクンシラン(キョウチクトウ科)の分厚い葉をもりもり食べていて驚きました。なんと逞しいことでしょう。そして・・・ 何と可愛らしいことでしょう!
イモムシでもゴキブリでもヌスビトハギでもパンにはえた青カビでも何でもいいのですが、ヴィランなものたちのどれかに、一度、スマホレンズを向けてみてください。「この癪に触る生き物をなるべく魅力的に撮ってやろう」と企みながら。すると、不思議なことに、たちまち心の軸が傾き始めて、スキもキライも混沌としてしまいますよ。
エディスト・アーカイブは、未知のお宝が無限に眠る別銀河。ワードさばきひとつでお宝候補をプレゼンしてくれる検索窓は、エディスト界の「どこでもドア」的存在ですね。
2025-06-28
ものづくりにからめて、最近刊行されたマンガ作品を一つご紹介。
山本棗『透鏡の先、きみが笑った』(秋田書店)
この作品の中で語られるのは眼鏡職人と音楽家。ともに制作(ボイエーシス)にかかわる人々だ。制作には技術(テクネ―)が伴う。それは自分との対話であると同時に、外部との対話でもある。
お客様はわがままだ。どんな矢が飛んでくるかわからない。ほんの小さな一言が大きな打撃になることもある。
深く傷ついた人の心を結果的に救ったのは、同じく技術に裏打ちされた信念を持つ者のみが発せられる言葉だった。たとえ分野は違えども、テクネ―に信を置く者だけが通じ合える世界があるのだ。