[週刊花目付#26]「感・応」コンシャス

2021/12/07(火)08:35
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週刊花目付

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■2021.11.30(火)

 

 錬成演習はステージ2へ。課題は「025番:即答ミメロギア」。入伝生は編集術の指南にとどまらず、番選ボードレールを想定したマネージメントメイキングを実践演習する。

 

 発言スコアを見る限り、これまでのところフルヤとヨシハラの馬力とトルクが際立っているが、全体的なインタースコア指数はプレワーク時とは打って変わって低調だ。抑制が効いているのなら構わないのだが、言葉を抱え込んだまま手放せずにいる者が少なくないように見える。
 36[花]の蕾はまだまだ固い。

 


■2021.12.02(木)

 

 イシス仲間で現在[遊]を受講中のT師範代がヘアカットにご来店。14綴は目下「トリガーショット」改め「トリガークエストの最中だという。カリキュラムの改編で、物語を構想する段階でのセレンディピティを広く見込むように強化されたようだ。

 

 「へー。面白そうだね」
 「でも辛いんです〜」

 

 それはそうだろう。自分にとって既知の領域に立って物語るのではなく、敢えて未知や異物を取り込むことで相転移を招こうとしているのだから。
 
 夕刻、zoomで所長&花目付会議。講座後半戦へ向けての作戦を練る。式目演習を通して、いかに入伝生たちが「困難との遭遇」から「目的の察知」へと展開して行けるか。
 英雄伝説で最も重要なシークエンスは「目的の察知」なのだと思う。それは主人公に託されたターニングポイントであり、他者は見守ることしかできない。困難が深いほど、飛躍のために用意される空は高く遠く広がるだろう。

 


■2021.12.03(金)

 

 何度も書いているが、「問・感・応・答・返」という型の秀逸は2点ある。「問・答」の間で「感・応」が往来する様が描出されていること。「問・感・応・答」のフィードバックループから「返」のスピンオフが予告されていること。

 

 さて前号で「感応」と「評価」が言い換え可能であることを提起したが、図らずも錬成演習中の入伝生が「評価するわたし」への抵抗感や苦手意識を吐露する姿を散見して、うぅぅむと考え込んでしまった。
 一般に「評価」というと、優劣をランクづけたり価値を権威づけたりするイメージがあるので、そうした序列階層構造のドラマに抗いたい思いがあるのだろう。それは分かる。
 だが、イシスの志す「評価」とは「編集的価値の描出」なのだ。上に倣えば「編集的感応の表象」とも言い換えられる。「わたし」がいま何を「感」じ、いかに「応」じようとしているのか。それを語り起こす作業を避けて、どう社会の強大なオートメーションに抗おうと言うのか。

 

 たとえばSNSの炎上騒動、イイね依存症、潔癖症、ヒキコモリ、慢性的なジブンサガシ、モンスターペアレント等々。これらの現代的な諸症例は、どれも「感」の過敏さに起因していると見て良いだろう。過敏な「感」を自制できずに「応」が暴走するか、もしくは感性のアポトーシスを招いているのだ。
 私たちはみな敏感でナイーブでフラジャイルな存在なのだが、その動向を丁寧に観察したり描写する習慣を持つ者は少ないし、「感・応」の回路を解発する場も限られている。編集稽古はその機能を担っているのだが、まだまだ十分な認知を得ることが出来ないでいる現状がもどかしい。

 

 ところで私自身も、我が身の「感・応」のアンバランスとアンビバレンスにはほとほと苦しみ続けている。ヒキコモリ気質で、過去には何度も危機的な時期もあった。それでもどうにか持ち堪えることができているのは「書く」ことを止めなかったからだと思っている。書くと言っても人に見せるための文章ではなく、自分のために自分の「感」を言葉にして記すことを習慣にしてきたのだ。
 言葉は思考を外在化する。外在化することで、思考はようやく編集可能な状態へ変換できるのだ。その作業は、アスリートが自分のフォームをチェックする訓練に似ていると思う。「感」は「」を通過させることによって「応」への回路を導くのだ。その「型」を、イシス編集学校は共読しようとしている。

 

 

■2021.12.04(土)

 

 今朝配信された「イドバタイムズ issue.1」が子ども編集学校の今をレポートしていた。子育てに縁のない私は遠巻きに眺めるばかりのプロジェクトなのだが、「子ども編集学校版の花伝所を作るとしたら…」という仮想に触発されてアレコレの仮説がアタマを巡った。

 

 花伝式目の5M(モデル・モード・メトリック・マネージメント・メイキング)は、たとえ相手が子どもだろうと異星人だろうと転用可能だろう。もう少し正確に言うと、子どもや異星人と接する立場にいる親やコミュニケーターならば、5Mこそは心得ておくべき型なのだと思う。
 花伝所は、実際の稽古事例を題材に、「師範代を養成する」という態で、5Mの修得を目指して演習を行う。これを子ども編集学校に置き換えれば、リアルな子どものライブな編集が目の前で展開されており、親は養成されるまでもなく親なのだから、エディッツに遊ぶ子どもの様子を観察する者としての意識づけを工夫しさえすれば、子ども編集学校は花伝所を別立てせずとも、自ずと花伝所の機能を果たすカリキュラムが構成されるのではないだろうか。

 

 翻って花伝所の難しさは、「師範代」というロールの寄るべなさに尽きるように思う。「親」は子に対して何があろうとも親でしかないという絶対的な関係にあるが、師範代ロールはもっぱら当人の自発と献身に支えられており、自我や自意識の重力が「編集的自己の自立」を阻むケースが少なくない。
 親が子どもに多くを学ぶように、美容師はお客様から多くを学ぶし、師範代は学衆と交わることで編集的自己を屹立させて行く。そんなふうに、我々ははじめから相互編集の海に放たれているのだから、自我や自意識に悩むくらいなら5Mの修得に意欲を持った方が良い。

 

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  • 深谷もと佳

    編集的先達:五十嵐郁雄。自作物語で語り部ライブ、ブラonブラウスの魅せブラ・ブラ。レディー・モトカは破天荒な無頼派にみえて情に厚い。編集工学を体現する世界唯一の美容師。クリパルのヨギーニ。