校長校話「EditJapan2020」(2/5)

2020/10/26(月)18:00 img
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セイゴオ・メディアの変遷

 僕はかつて、トーハンに頼まれて「ハイスクール・ライフ」という高校生向けのタブロイド新聞をつくっていました。

1967(昭和42)年 23歳
父の借金を相続、大学を中退してPR通信社およびMACに入社。東販の読書新聞「ハイスクール・ライフ」の編集長となる。

 そこでは、高校生のためだけに一番ラディカルなことを書こうと思って、土方巽とか寺山修司とか澁澤龍彦とか、ダンセーニとか稲垣足穂だとか、そういう突出した人たちばかりを登場させました。トーハンは呆れていたけれど、それでも60万部刷るというので、だったら「燃えよ、崩れよ、落ちよハイスクール」というようなつもりで編集しました。それを当時、寺山さんだとか澁澤さんだとかが褒めて「これはもう東京のヴィレッジ・ボイスだ」と朝日新聞に書いてくれた。「遊」をつくったのはその後です。

1971(昭和46)年 27歳
『遊』創刊号 刊行。
株式会社工作舎設立。

 ただ、「遊」をやった後も、日本はどんどんおかしな方向に向かっていって、これはだめだと思いました。届かなかった。「ハイスクール・ライフ」や「遊」の読者の中には金井美恵子さんや田中優子さんがいましたから、全然届かなかったわけではないかもしれないけれども、何となく、僕としては届かなかったという思いがあります。そういうことを経て、90年代、先ほどお話ししたプライベート・メディアに取り組むようになりました。

1994(平成6)年 50歳
プライベートメディア「一到半巡通信」発行開始。

 「一到半巡通信」は、松岡事務所で刷った、1通が8ページくらいの小さなメディアです。大衆に訴えたいわけでも広めたいわけでもない。ただ、自分が一番言いたいこと、キレイダとかキライダとかキカイダだとかを、自分の好き嫌いだけを聞いてくれる人に宛てて発信しました。それを井上鑑さんだとか、いとうせいこうさん、香山リカさんなど、わずかにちらっと見た人や、だったら送りましょうと思って送った人たちが、ものすごく面白がってくれたんですね。

テッド・ネルソンとの出会い

 時をほぼ同じくして、海の向こうでは、何かカタカタ、コトコト、という動きが出てきていました。当時、日本でも月尾嘉男さんが「風雅の技法」というタイトルで8ビットのパソコンの組み立て方というのを書いていて、高橋秀俊さんが『自然』という雑誌のロゲルギスト・エッセイの中で、マイコン(マイクロコンピュータ)のことを書いていた。僕は、この「小ささ」はなんだろうと思い始めていたんです。すると、海の向こうでカタカタ、コトコト。ワンチップコンピュータというのが出てきました。小さな画面の中に机があって、そこにペンが乗って、消しゴムがあって、ノートがあって、ゴミ箱がある。デスクトップメタファーです。カーソルもありました。日本があいかわらず浮かれている中で、あれ、この小ささ、スモールサイズというのは何だろう、という驚きがありました。また、ソニーがMavica(マビカ)という電子カメラを発売したときには、西武映像のセディックにいた石原恒和くんが突然訪ねてきて「僕は、このMavicaというのを知らせるべきは松岡正剛だと思う」と言うんです。

 そして90年代のはじめ、アメリカのリチャード・ワーマンという男から「自分はTEDというのをつくっている。そこに、日本人として初めて君を招きたい」と招請が来ました。

1992(平成4)年 48歳
リチャード・ワーマンがプロデュースする「TED3」のため渡米。

 ワーマンは、セイゴオに紹介したいのは5人いると言って、テッド・ネルソン、アラン・ケイ、ビル・アトキンソン、ジャロン・ラニアースティーブン・Jグールドを次々に紹介してくれました。彼らは、僕が日本で「遊」をつくっても、何をつくっても話せないような相手でした。その頃の日本では、知と身体的なものとは関係がないと思われてたわけです。さきほどは新教室名発表の囃子方として、すばらしいセッションをグルーヴしてくれたライオン丸(岡田圭蔵師範代)と農夫(浅羽登志也師範)がいましたけれども、当時は言葉とジャズは違うと思われていたし、俳句と樂焼きを一緒に見るということもなかった。しかしアメリカの彼らは、コンピュータの中で音が出る、編集ができる、それからメモリーを上げればスピードも変わる、と、いろんな新しいことをし始めていたんですね。

 5人の中でも、僕がいちばんギョッとしたのがテッド・ネルソンです。彼はクルーザーの中に住んでいるという。もう家は要らない、われわれはノーマッドだ、遊牧的定住民だとナム・ジュン・パイクみたいなことを言っていた。こいつはすごいなと思って、マリーナにある彼のクルーザーを訪ねました。ふたりで向き合って非常に面白く喋ったんだけれども、そのテーブルの上にはなぜか、7つくらいのポストイットが置いてある。見ていると、喋りながらネルソンは何かを書くんですよね。僕が喋ったときも書く。書いてそのままかと思うと、それを身体にこう、貼っていく。一種のロケーションというかアドレスを、叩くようにして、バシャッと貼っていくんです。知というものが身体にくっついていく。それがどんどん増えていく。彼が喋ろうとするとき、ふむ、さっきこのへんに貼ったな、というのをチラッと確認したりもする。その時、僕とネルソンの間には、何か一種のバーチャル空間ともリアル空間ともいえない、リアル・バーチャルなものが立ち上がりつつありました。

 なるほど、ジョブズたちがガレージで、アラン・ケイたちがパロアルト(研究所)でやっていたのはこれかという驚き、衝撃です。毎日毎日こんなことを話していたのかと。これは到底、かなわない。僕のほうでも、何かそういうものがあると思ってやっていました。記憶と再生のための新たなインターフェイス、イメージをマネージするための装置、複合的で動的なコンテキストを組み立てるメソッド。そういった試みが『全宇宙誌』や『情報の歴史』になったわけですが、しかし、海の向こうでそんなふうに「情報」というものを考え続け、さらに技術によって形にしている集団がいるんだということは、ちょっと、想像できていなかったんですね。

 アメリカでいろいろ衝撃を受けて日本に戻ってきた後で、ちょっと待てよと思いました。彼らがやっているのは編集だ、エディティングだ。そう気づいてからは、全部をトレースすることを試みました。ワーマンについては、『理解の秘密』という本を千夜千冊で紹介しています。トレースし、リバースエンジニアリングし、僕の中でそれを新たに、樂吉左衛門に、戸川純に、それからハッピーエンドに貫入させていくという行為を2、3年続けました。

 アメリカの彼らは、情報編集の仕組みを、リサとかマッキントッシュとかアップル2とか、いろんなものにマシン化する。マシーナリーな発想とアルゴリズムの中でそれを処理している。この分野ではもう負けたと、無理だと思いました。だから日本のわれわれとしては、生(ナマ)のわれわれ自身が編集的になっていくしかないとを考えて、そのための「編集の国」を「イシス」と呼ぶことにしました。インター・アクティブ、要するにインタラクティブ、相互記譜。お互いにスコアリングして、記譜し合うような、インタラクティブなシステムとしてのイシス(inter-active system of inter scores)です。

さしかかりのプラットフォーム

 90年代の終わりに、僕は漠然とISISを構想して、これをやろうと思いました。ところが、編集工学研究所のスタッフたちや、噂を聞きつけたNTTの先端技術者たちは、そのISISというシステムをネット上につくりたいわけです。僕は、いや生でいきたいと言ったんですが、絶対これからはネットでないといけないというので、結局僕が折れて、編集学校はネットにしました。それはそれで良かったんだけれども、ならばISISというプラットフォームは開け伏せが起こるようなものにしたいと思った。つまり、何かをやっていかないと開かないプラットフォームです。「誰にとってもわかりやすい」というWindows2.0みたいなものにはまったく関心がありませんでした。

 届く人と届かない人とが絶対にいるから、そこにさしかからない限り開かないOSとか、アプリというものがつくりたい。アタマのところで開け伏せが起こるようにしたいと。昨日、太田香保さん(総匠)が「松岡正剛の千夜千冊 12の秘密」を解読してくれました。このときのISISの謎も、いずれ彼女が解読するかもしれませんが、とにかく、そういうものをつくったんです。

1996(平成8)年 52歳
『知の編集工学』出版。

1998(平成10)年 54歳
「編集の国」建国準備委員会を発足。

 当時、太田さんの弟の剛くんが開発チームにいて、彼は僕のいうことを聞いて、開け伏せのある、たとえば十通りくらい何かをやらないとある部分が開かないようなミニOS、OSモドキを仕上げてくれました。ただ、つくったはいいものの、スタートを切ってみたら、待てど暮らせど誰も気づかなかったんですね(笑)。やりやすい、面白い、あるいはやりにくい、もっと速くしてほしいとか、そういう感想や要望は言うんだけれども、肝心のところに気づかない。だから僕は「編集の国ISIS」の中のイシス編集学校と名づけたものを、誰かに託す以外ないと考えました。そこに行って困ったり、さしかかったり、誰かに「どうしよう」「ねえねえ、でも一緒に考えない?」「私もやるからあなたもやらない?」と言ってくれる、そういう人が必要だと考えたんです。

 最初の仲間に選んだのは、まったくパソコンも知らない、場合によっては編集工学もほとんど知らない、「遊」ぐらいは読んでいたかもしれない10人くらいの人々でした。詳しくは『インタースコア 』を読んでほしいんですが、彼ら彼女らが、編集学校の第一期生の師範代なんですね。そこには、パソコンのパの字も知らない太田眞千代さん(母匠)もいました。ただただ僕のファンというだけです。だけどこれでいこうと思ったんです。

 Windows2.0をはじめとする「わかりやすく、ユーザビリティ高く」というだけのものではない、ユーザーがユーザビリティを自ら発見せざるを得ないような、ある種の回路を組み込んだシステムを目指して、編集学校をスタートさせました。そこには、今でいう38番のお題も必要でした。IDとパスワードを入れれば用意されたものが動くのではなくて、動き出したら何かお題が出て通せんぼをする、待ったをかける。これいったいどうしたらいいのかな、こっちじゃないものがほんとは欲しい、と思うような回路を仕込みました。そんなふうに、お題とともにつくったのが編集学校なんです。

2000(平成12)年 56歳
「編集の国」実験事業開始。
「千夜千冊」連載開始。
「イシス編集学校」12人の師範代でスタート。


 

校長校話「EditJapan2020」

 


  • 加藤めぐみ

    編集的先達:山本貴光。品詞を擬人化した物語でAT大賞、予想通りにぶっちぎり典離。編纂と編集、データとカプタ、ロジカルとアナロジーを自在に綾なすリテラル・アーチスト。イシスが次の世に贈る「21世紀の女」、それがカトメグだ。

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