【多読ジム】冊・析・代の三夜読み(前篇) 千夜リレー伴読★1786〜1788夜

2021/12/13(月)09:53
img POSTedit

今回の多読伴読リレーは、1786夜『神は、脳がつくった』1787夜『ネガティブ・ケイパビリティ』1788夜『天と王とシャーマン』の三夜。いつもとは装いを変えて、大音美弥子冊匠・小倉加奈子析匠・金宗代代将による「冊・析・代の鼎談三夜読み」です。前篇と後篇に分けてお届けします。

 

代将:

 <多読ジム>スペシャルコース『大澤真幸を読む』がついに一万字を書くお題「読創文」の〆切日をもって、締めくくりを迎えました。週末には「読了式」が開催されますね。MM対談も楽しみです。

 「読創文」のお題では「自分入り」に苦手意識を持っている読衆さんがちらほら見受けられました。「自分入り」は創文の一つの鍵を握っていると思いますが、例えば、1786夜『神は、脳がつくった』はこんな「ポッと出」で始まっています。

モンテスキューは「もし三角形に神がいたのなら、神には三辺があったろう」と言った。神や神学を揶揄しているようでいて、その本質を突いたうまい言い草だ。ぼくは自転車屋のイノダのおじさんから古いサドルをもらって、これを京都中京の天井が低い2階の部屋にたいせつに飾っていたことがある。ロバチェフスキー型の空間曲率をもった立体三角の神さまだった。神に三辺があったって、おかしくはない。


析匠:

 モンテスキューとイノダのおじさんとロバチェフスキーがセイゴオ少年のエピソードによって、三角形を作っているのがすごいですよね。こんなアクロバティックな「ポッと出」もあるんですね。あ、ちなみに、「ポッと出」というのは松岡正剛直伝のコラム執筆の極意のひとつです。もたもたせずに本題にいきなり入りなさいということですね。

 松岡正剛の多読術のひとつの特徴は、「遅く読んで、速く書く」というところにあると思います。「遅く」というのは、「急がない」と読み替えて良いかと思いますが、読みながら次々に浮かぶ様々な「連想(≒プロフィール)」を大事にしながら読む。その一方でいざ書く時は、連想を束ねながら一気に文脈を興していく。そして、読むと書くのアイダには、書き手が提示するキーワードと読み手の連想による「ホットワード」の出会いがあって、だから読書って「交際」なんですよね。
 こうやって千夜の冒頭を読むだけでも、いかに校長が読書の中であらゆる人物と時空を超えて「交際」しているんだってことがよくわかります。


冊匠:

 ですよね。ですよね。ただ、このセイゴオ少年、実在の京都中京の2階に住む少年でも十分魅力的ですが、「タルホ=セイゴオ」の共振体だとしたら、もっと面白くなりませんか?
 つまり、これって千夜千冊0407夜『デイヴィッド・コパフィールド』(チャールズ・ディケンズ)で書かれた「お気にいりの子供の目」≒editing selfの発揮ではないかという読みです。で、もしそうだとすると、これは最新エディション『全然アート』で詠まれた「描(えが)く彫(ほ)る象(かたど)る擬(もど)く秋落暉(あきらっき)」とピタリ重なるように思えます。

 「もたもたせずに」本題に入るとともに、本題が展開される時や場についても、ビジュアルなイメージをおこすことばを選ばれている。まさに「タダの言葉」ではなく「アヤの言葉」、トポスからにじみ出るトピックです。それはもちろん「興」をおこすための方法として使われていること、つまりご自分お一人の文才ではなく、誰だってその方法の持ち出しは可能だよ、ということを毎回毎回教えてくれているのでしょう。

松岡正剛『千夜千冊エディション 少年の憂鬱』(KADOKAWA)

代将:

 今季の<多読ジム>のエディション読みの課題本『少年の憂鬱』を思わせる内容でもありますよね。校長は「幼なごころ」の持ち出しが絶妙にうまい。実は幼なごころは『神は、脳がつくった』とも分かちがたく結びついています。さっきは「ポッと出」を紹介しましたが、今度は逆に「締めくくり」の引用です。

「脳が、神をつくった」とも言えるけれど、実のところは「幼児が、神をつくった」とも言うべきだった。

 そもそも、「脳が、神をつくった」を考えるというのは「怖がる」とは何か、「びびる」とは何かってことなんですよね。

そうした神さまを崇め奉ってスーパーナチュラルな存在にしたのは、むろん人間の畏怖と知恵による。怖がって、押し上げて、聖像化して、犠牲を捧げた。

 ちなみに冊匠、析匠にとって、原初のビビりエピソードって何ですか?

 

析匠:

 私は、ビビりな少女だったので、「高い」「暗い」「独りぼっち」のこれら3つのシチュエーションのどれかに置かれただけでビビりまくっていました。せっかちでもあるので、祖母に「ちょっとここで待っていてね」と言われても5分も待てず、おばあちゃんがいないよ~と泣いて歩きまくって行方不明となり、祖母が誘拐されたんじゃないかって、ビビったことも。あ、これは祖母のビビりエピソードですね…。

 ほかにも木登りは好きだったけれど、観覧車とか自分の力では登れないような高いところはビビりポイントでしたし、お化け屋敷は今でも嫌い。自分じゃ想定できないほど世界が大きいんだっていうことを実感する場面で萎縮しちゃっていたんだと思います。小さいものフェチもそこから来ているような。やっぱり細胞眺めていると安心する。おうちに戻ってきた感じがします。

 

代将:

 結局そこに落ち着くんですか(笑)。でも、「細胞」に落ち着くってかっこいいな。羨ましい。『神は、脳がつくった』の千夜でもこんな記述がありますね。

 ぼくはどんな学問や思想も「タンパク質から考えるべきだろう」という方で、また「どんな構成論も細胞から考えなおすべきだろう」と思っているのだが、このことは神のルーツはタンパク質や細胞にまで、そう言って支障がないのならウイルスにまでさかのぼるということを意味する。

 それで、冊匠は?

 

冊匠:

 ビビリについては人後に落ちない自信ありでーす。
 あの、わたしの場合、一番怖いのは「死ぬ」と「消える」ということで、これはまさに1786夜に描かれている「自伝的記憶」が形成された証拠とも言えると思います。幼稚園の夏休み、近所の映画館で「東映まんがまつり」かなんかを観ていたときに、突然それに気付きました。でも、そのことは周囲の大人には打ち明けられない(だって彼らも「死ぬべき」運命にあるかわいそうな、フラジャイルな人たちなんですから)。
 しばらくの間、八百屋のおじさんのようにひたすら陽気に目の前の仕事に夢中になっている大人に、「だって、いつか死んで消えるの、知ってる?」と聞いてみたいような、「知ってるのに、あんなに陽気でいられるのか?」といぶかしむような、釈然としない日々を送りました。

 お化け屋敷的なことでは、『四谷怪談』(1965)、『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』『大魔神』(1966)は本当に怖かった。今なら「R15+」がもらえるかどうか、ギリギリでしょうね。映画館が、まだ「悪場所」で「界隈」だった時代を知ってる最後の世代なのかも(笑)。

 

代将:

 映画かぁ〜。そういえば、ぼくの少年期はちょうど「Jホラー」の全盛期でした。『リング』(1998)に『呪怨』(2000)に『学校の怪談』(1995)。テレビでは『世にも奇妙な物語』(1990-)がスタートし、『スクリーム』(1996)などハリウッド系のいわゆるスラッシャー映画も大流行していましたね。お金持ちのいとこの豪邸で見た『チャイルド・プレイ』(1989)とか『グレムリン』(1984)など80年代のホラー映画も頭に焼き付いています。あと『幽幻道士(キョンシーズ)』(1986)だ。テンテンがかわいかった。

 で、ぼくのビビり原体験は4、5歳のときに虫かごで買っていたカマキリの共食いを目撃してしまったこと。カマキリは交尾したメスがオスを食べてしまうんですよね。いまだに引きずっているトラウマです(笑)。けれどもそれをロジェ・カイヨワが『神話と人間』(せりか書房)で真っ向から取り上げていたのを読んでギョッとしました。カマキリを材料にして、まさに「脳が、神をつくった」という料理に仕立てています。

ロジェ・カイヨワ『神話と人間』(せりか書房)

析匠:

 カマキリのオスって、自らが生まれてくる子どもの健やかな成長のためにメスの餌食となり、子どもの血肉になろうとするんですよね。すごいなぁ、カマキリのオス。潔すぎるし、自分の遺伝子を確実に子孫に残すならなんでもするっていう切実さが胸を打つなぁ。

 

代将:

 えぇ?(笑) カニバリズム、カーニバルです。なぜ共食いするのか真相は定かではないのですが、どうやら「栄養摂取」だけが目的ではないようなんです。オスの頭を食べてしまって、脳の抑制中枢を切除することで「性交の痙攣運動をよりよく、より長くおこなうことができる、という目的をもっているのではないか」という仮説を紹介しつつ、カイヨワは「快感原則」と結びつけて説明しようともしています。

 「栄養摂取」はタナトスであり、「快感原則」はエロスです。このエロスとタナトスが人間の想像力によって「歯の生えた膣をもった女の神話」に変換される。いわゆる「毒娘」の伝説というやつですね。

 

冊匠:

 エロスとタナトスから「脳と神」の関係に無理やりもどるとしたら、本来は母権制に基づいて旅を続けてきたホモ・サピエンスが定住を始め、父権制に移行したときに、地位を奪った存在(女性)が祟らないよう「神にまつりあげた」ということはあるかもしれない、と思っています。そういう男vs女の諍いをポエティックに編集したのが、日本神話のイザナギ、ギリシャ神話のオイディプスによる黄泉下りではないかなぁ、と感じてしまうんですね。

 

代将:

 火の神のカグツチを産んでホトを火傷して死んでしまったイザナミ。そのイザナミの変わり果てた姿をつい見てしまったイザナギが死ぬほど追いかけ回される黄泉の国の話は、確かにカイヨワのいう「毒娘」伝説の代表例だと思います。

 さて、夜を移って、1787夜『ネガティブ・ケイパビリティ』ではこんなことが書かれています。

キーツはシェイクスピア(600夜)の創作力の秘密をずうっと解明していた青年である。そしてあるとき、その創作力がネガティブ・ケイパビリティにもとづいていることに気がついた。シェイクスピアが自分の才能の度合いやアイデンティティの獲得にこだわらず、むしろ徹して不確実さや不思議さや懐疑の中にいられる能力を作劇につかっていることに気がついたのだ。

「自分の才能の度合いやアイデンティティの獲得にこだわらず、むしろ徹して不確実さや不思議さや懐疑の中にいられる能力」ってこれも幼なごころじゃんって思いましたね。


析匠:

 なるほど。そうなると今のおとなの多くが確実に幼な心を忘れていますね。だって、不確実さや不思議さや懐疑は回避する方向で、「わかりやすさ」ばかりを求めているじゃないですか。不確実なことがないようにって、コンプライアンスも強化されています。だから、不確実なことへの耐性は弱まる一方ですよね。精神科領域でも「不確実性」って今すごく重要なキーワードになっていると思います。

 

冊匠:

 ちょっと主題から寄り道しますが、千夜の著者帚木蓬生さんは、キーツの「ネガティブ・ケイパビリティ」を再発見した精神科医ビオンについて、相当詳しく語っています。たとえば井原西鶴を再発見して幸田露伴や尾崎紅葉に伝えていった淡島寒月のような人(この人は生涯「一少年」を貫いた稀有な存在だったと思います)。

 編集工学にとってそういう立場をつとめているね、というねぎらいから深谷もと佳花目付にスポットが当たったのかしら、と感じました。あの「問・感・応・答・返」の示し方、素晴らしいです。

 

代将:

 まったく同感です。この千夜の著者の帚木蓬生さんは、精神科医ですが、そういえば、先日、おしゃべり病理医のMEdit Lab」で析匠は同じく精神科医の星野概念さんと対談しましたよね。概念さんのあのふわふわしたやわらかいコミュニケーションの感じ、大好きです。


析匠:

 そうそう、その概念さんが、今、オープン・ダイアローグに夢中なんですって。オープン・ダイアローグとは、フィンランド発祥の対話法のひとつで、当事者とそのひとのまわりにいる家族や支援者や教育者などが集まって行う対話療法です。

 まずは当事者の方のお話を徹底的に聞いて、それから参加しているメンバーがそれぞれ何を考えているかを丁寧に提示していき、どう場が動いていくか、みんなで身を任せていくという方法です。その理念の中核のひとつが「不確実性に耐える」ということなのだそう。解決を急ぎ過ぎず、あらゆる可能性を問いのまま保持できる力ってことですよね。その点、オープン・ダイアローグに限らず、編集工学もかなりいけるんじゃないかと思えてきます。千夜千冊にもこうありますよね。

そのブランショには「性急な答えは質問を不幸にする」あるいは「つまらない答えが好奇心を殺す」という編集思想が貫かれていた。


冊匠:はい。マラルメも同意見でした。

ステファヌ・マラルメが1886年にとっくに書いたこと、すなわち「定義することは殺すこと、暗示することは創造すること」を思い出したほうがよい(#459夜)。

 オープン・ダイアローグの方法を独自に極めたのが、北海道の「べてるの家」かもしれないと感じました。赤十字病院のソーシャルワーカーだった方が廃教会を利用してほとんど一人で始められた活動ですが、今では浦河という町の名物として「町おこし」にも貢献しています。

 ここで行われる「当事者研究」では「妄想さん」を未知数Xなベースと考えて、ひとまずは退散してもらう(ターゲットを変更する)。そして、後になって落ち着いてから、そのプロフィールについて、本人も周囲の人も一緒に話し合うというかたちをとっています。校長が言われるように、まずは負を包摂する文学。それでも耐え切れなくなったら、話し合いやふれあいこそがわれわれを「答えの出ない事態」に耐えさせてくれるのだとおもいます。

 

 

後編に続く

 

Info


◉多読ジム season09・冬◉

 

∈START
 2022年1月10日(月)~3月27日

  ※申込締切日は2022年1月3日(月)

 

∈MENU
 <1>ブッククエスト(BQ):先達文庫 感門77
 <2>エディション読み   :『全然アート』
 <3>三冊筋プレス     :青の3冊

 

∈URL
 https://es.isis.ne.jp/gym

  • 金 宗 代 QUIM JONG DAE

    編集的先達:宮崎滔天
    最年少《典離》以来、幻のNARASIA3、近大DONDEN、多読ジム、KADOKAWAエディットタウンと数々のプロジェクトを牽引。先鋭的な編集センスをもつエディスト副編集長。
    photo: yukari goto

コメント

1~3件/3件

山田細香

2025-06-22

 小学校に入ってすぐにレゴを買ってもらい、ハマった。手持ちのブロックを色や形ごとに袋分けすることから始まり、形をイメージしながら袋に手を入れ、ガラガラかき回しながらパーツを選んで組み立てる。完成したら夕方4時からNHKで放送される世界各国の風景映像の前にかざし、クルクル方向を変えて眺めてから壊す。バラバラになった部品をまた分ける。この繰り返しが楽しくてたまらなかった。
 ブロックはグリッドが決まっているので繊細な表現をするのは難しい。だからイメージしたモノをまず略図化する必要がある。近くから遠くから眺めてみて、作りたい形のアウトラインを決める。これが上手くいかないと、「らしさ」は浮かび上がってこない。

堀江純一

2025-06-20

石川淳といえば、同姓同名のマンガ家に、いしかわじゅん、という人がいますが、彼にはちょっとした笑い話があります。
ある時、いしかわ氏の口座に心当たりのない振り込みがあった。しばらくして出版社から連絡が…。
「文学者の石川淳先生の原稿料を、間違えて、いしかわ先生のところに振り込んでしまいました!!」
振り込み返してくれと言われてその通りにしたそうですが、「間違えた先がオレだったからよかったけど、反対だったらどうしてたんだろうね」と笑い話にされてました。(マンガ家いしかわじゅんについては「マンガのスコア」吾妻ひでお回、安彦良和回などをご参照のこと)

ところで石川淳と聞くと、本格的な大文豪といった感じで、なんとなく近寄りがたい気がしませんか。しかし意外に洒脱な文体はリーダビリティが高く、物語の運びもエンタメ心にあふれています。「山桜」は幕切れも鮮やかな幻想譚。「鷹」は愛煙家必読のマジックリアリズム。「前身」は石川淳に意外なギャグセンスがあることを知らしめる抱腹絶倒の爆笑譚。是非ご一読を。

川邊透

2025-06-17

私たちを取り巻く世界、私たちが感じる世界を相対化し、ふんわふわな気持ちにさせてくれるエピソード、楽しく拝聴しました。

虫に因むお話がたくさん出てきましたね。
イモムシが蛹~蝶に変態する瀬戸際の心象とはどういうものなのか、確かに、気になってしようがありません。
チョウや蚊のように、指先で味を感じられるようになったとしたら、私たちのグルメ生活はいったいどんな衣替えをするのでしょう。

虫たちの「カラダセンサー」のあれこれが少しでも気になった方には、ロンドン大学教授(感覚・行動生態学)ラース・チットカ著『ハチは心をもっている』がオススメです。
(カモノハシが圧力場、電場のようなものを感じているというお話がありましたが、)身近なハチたちが、あのコンパクトな体の中に隠し持っている、電場、地場、偏光等々を感じ取るしくみについて、科学的検証の苦労話などにもニンマリしつつ、遠く深く知ることができます。
で、タイトルが示すように、読み進むうちに、ハチにまつわるトンデモ話は感覚ワールド界隈に留まらず、私たちの「心」を相対化し、「意識」を優しく包み込んで無重力宇宙に置き去りにしてしまいます。
ぜひ、めくるめく昆虫沼の一端を覗き見してみてください。

おかわり旬感本
(6)『ハチは心をもっている』ラース・チットカ(著)今西康子(訳)みすず書房 2025