『鬼滅の刃』戦闘する中空構造【マンガのスコア番外編】

2021/01/01(金)10:00
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 新年あけましておめでとうございます。

 昨年3月からスタートした「マンガのスコア」も、ようやく全体の四割ぐらいまでたどり着きました。このペースを順調に維持しても今年中には終わりそうにありませんが(ひ~)、これからも引き続きよろしくお願いいたします。

 

 さて、今回は新春特別企画の番外編です。

 当連載は近畿大学DONDENの「LEGEND50」のリストをもとに連載を進めているのですが、このたび編集部からの提案で『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴・集英社)をやってほしいと言われました。LEGEND50は、出る人出る人、碌々たる重鎮ばかりで、読者もいささか胃もたれしているだろう、ここらで一つ、いま盛り上がってる旬のトピックでリフレッシュするのもいいのではないか、というわけです。

 

 初めに正直に告白しておきますが、実はワタクシ『鬼滅の刃』イマイチよくわかりません。

 話題になっているので一応読んでおくか、と読み始めたのですが、十巻ちょっとのところで止まってました。

 そこへ今回の編集部からのリクエストを受け、あわてて残りの巻を読み、アニメ(の一部)も見たわけです。

 決してつまらなくはない、ふつうに面白いと思います。これが今「ジャンプ」で大人気だと聞いても納得したでしょう。しかし、今のブームは、そんなレベルではない。異常なほどの過熱ぶりです。

 そうなると、私の理解が追いつかなくなってきます。正直そこまで「スゴく」面白いわけではない。やっぱり自分はもう、時代について行けなくなってるのかなあと弱気になっているのですが、『進撃の巨人』(講談社)は、ちゃんと面白いと思えるので、まだ大丈夫かしら?

 

■なにゆえのブーム?

 

 現在のブームの過熱ぶりをめぐっては様々な考察が出ているようですが、結局よくわからないようです。この作品が持っている、従来のマンガにない新しさというのが取り出しにくいのですね。

 特徴的な要素を取り上げることはできます。一方的に悪を断罪するのではなく、敵側に共感する視点が新しい、ということがよく言われているらしい。

 たしかにそういう側面は、他のバトルマンガに比べると多少多めなのかもしれません。しかし独自なものとするには弱すぎますよね。

 敵への情け、というだけのことなら、平家物語の昔からあったでしょう。「鉄腕アトム」にも、敵に対する惻隠の情は、しばしば感傷的に描かれていましたし、全く殺伐たる勧善懲悪ものに見える「仮面ライダー」(*1)ですら、原作版の「よみがえるコブラ男」編では、敵キャラの最期を、切々たる哀愁をもって描いていました。

 結局「ここが決定的に新しい」といえるような、わかりやすい符牒のようなものは見当たらないのですね。

 

 結局、王道は強いということに尽きるのでしょう。なにしろ、ベタなぐらいの「胸アツ」展開が続くので、私みたいな濁った人間には、ちょっとついていけないのところもあるのですが、そこはわかった上で、敢えて乗っかってみるのもいいかもしれません。

 今や講談も浪曲も大衆芸能としての役割はほぼ終え、好事家の愛玩物の地位に甘んじていますが、実はこうした浪花節的な心性は、手を変え形を変え、脈々と受け継がれているのですね。『鬼滅の刃』は古い革袋に新しい酒を入れてみたら、思わぬ化学反応を起こしてしまった例なのかもしれません。異常なレベルの大ヒットを目の前にして、いったい何事が起こったのかとうろたえるばかりですが、オーソドックスな物語類型は、ときにこういう爆発力を発揮するようです(それにしても何故この作品が、という説明にはなっていないのですが)。

 

 さて、今回はそんな『鬼滅の刃』から、映画にもなった「無限列車編」からの1ページを模写してみました。

吾峠呼世晴「鬼滅の刃」模写

(出典:吾峠呼世晴『鬼滅の刃』⑦集英社)

 

 こういう【圧の強い構図】って歌舞伎の役者絵を見ているようですね。とりわけ1コマ目の煉獄杏寿郎は、キャラも歌舞伎っぽいので、見得が決まってます。単に目が覚めたというだけのシーンなのですが。

 煉獄さんの顔は意外に難しい。何度描き直しても、そっくりにならず、テキトーなところであきらめました。何が違うんだろう?田中圭一先生の言う【目鼻口】三点のバランス?目にすごく特徴があるのは確かですね。炭治郎から「どこを見ているんですか」とツッコまれるほど目の焦点が無限遠点にイッちゃってる。これが、はからずも煉獄さんの内面のヤバさを表しているんですね。

『鬼滅の刃』のキャラ達は、とにかく一人一人の目の描き方に工夫が凝らされています。各キャラの個性に応じて、少しずつバリエーションを変えていますね。ただ総じて目に光がないのが特徴的です。煉獄さんとは違う意味で、どこを見ているのかわからない目をしている人が多い。

 その中で異質なのが炭治郎の眼ですね。黒目にしっかり光が入ってはいるのですが、その描き方は独特です。二コマ目のアップでもわかるとおり、中心部の輝点が角張った【多角形】をしていて、そこから放射状に火花が散っているような形になっている。

 アニメ版の目はさらに印象的で、広い面積に渡ってベッタリとしたグラデーションがかかっていて、とても強い印象を与えます。はからずも炭治郎くんの空虚な内面の不気味さが、瞳によって強調されているようです。

 彼は、近年のマンガのキャラには珍しいぐらい純粋まっすぐ君で、何しろ無意識が「澄み切った青空」なんですから恐ろしいですね。

 

■イノセンスの系譜

 

 しかし、もともと少年マンガの主人公って、炭治郎みたいなタイプが標準的でした。

 昭和三十年代までのヒーローは、ほとんど内面のない自動人形みたいなもので、ピストル片手に命の危険も顧みず敵地に飛び込んでいく金田正太郎くんみたいな人たちばかりだったのです。

 やがて時代がくだって行くにつれ、劇画やアメリカン・ニューシネマなどの影響で、主人公の内面にも鬱屈の影が差しこんでくるようになります。ちばてつやで言えば「ハリスの旋風」から「あしたのジョー」の間に一つの断層がありますね。

 そして70年代に入ると、戦うヒーローたちは、のきなみ鬱屈大全開となり、少し遅れてアニメの方面でも、富野由悠季などが鬱屈ヒーローを次々に打ち出していきました(それが碇シンジくんなどにまで繋がっていくわけです)。

 しかし鬱屈路線というのも、さして長続きはせず、70年代半ばに「少年マガジン」から「少年ジャンプ」へ発行部数の首位の座が移った頃から、ヒーロー達は徐々に快活さを取り戻していくようになります。

 80年代に入ると「キャプテン翼」や「ドラゴンボール」など明るくスカッとしたキャラが支持されるようになっていきました。

 

 以前、当連載の鳥山明の回で、バトルマンガにおけるイノセントなヒーローのプロトタイプとして「ドラゴンボール」を取り上げました。悟空は戦うときに、「オラ、わくわくするぞ」と言っちゃう子だったわけです。地球の命運がかかった戦いで、わくわくするのはちょっと不謹慎な感じがするわけですが、そこが面白かった。

 イノセントであることと、社会的規範とは、場合によっては乖離することもあるでしょう。純真であるということは、ときに残酷でもあります。こうしたどこか「ひとでなし」の雰囲気を漂わせた純真さ、という印象は「ONE PIECE」のルフィなどにも見受けられます。

 ルフィは、主人公にしては珍しく、目に光がないのですね。炭のように真っ黒な瞳をしています(そういえば悟空もですね)。これは「のらくろ」や「タンク・タンクロー」など戦前マンガのデフォルトだったのですが、戦後、手塚治虫が、キャラの瞳に白い点を加えることで命を吹き込んだのです。このあたりの経緯については、「手塚治虫③」でも触れた夏目房之介『手塚治虫はどこにいる』でも詳しく解説されています。

(阪本牙城『タンク・タンクロー』小学館クリエイティブ/尾田栄一郎『ONE PIECE』④集英社)

どちらも真っ黒な目

 

 戦後マンガの系譜からいえば、むしろ悟空やルフィの方が破格であって、炭治郎は王道に忠実です。炭治郎の不思議な瞳は、超俗性と親しみやすさを兼ね備えていて、読者の感情移入を必ずしも阻害しません。主人公視点のモノローグも多く、一人称小説に近い形式になっています。そういう意味では「ドラゴンボール」や「ONE PIECE」は三人称的で、ルフィや悟空は、何考えてるのか、ちょっとわからないところがありますね。

 炭治郎にはそういうところはありません。内面はどこまでもクリアで澄み切っています。炭治郎のイノセンスは、悟空やルフィのように動物性と直結することはなく、社会的規範から大きく乖離することもないのです。

 

■ツクヨミ的中空構造

 

 このようなどこまでも澄み切った心の美しさというのは、どこか空虚な感じもします。

 ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」でいえばアリョーシャ的とも言えるでしょうか。カラマーゾフの三兄弟のうち、長男のドミートリィと次男のイワンは、強烈な個性を発散した怪人物ですが、三男アリョーシャだけは真水のように透明な人物でした。それはどこか超俗的で、無個性な人間のようにも見えます。河合隼雄の言葉を借りるなら、アリョーシャは、いわばツクヨミ的中空構造(千夜千冊141夜)をなしていて、そのような虚ろな存在であるアリョーシャが物語を駆動する原動力にもなっているのです。

 

 主人公は無色透明な中空構造をなしていて、周りにいるアクの強いヤツラが花を添える、という英雄物語のパターンがあります。たとえば中国の古典小説では、「三国志」にしろ「水滸伝」にしろ「西遊記」にしろ、しばしば領袖にあたる人物は、純粋さだけが取り柄の無能な人物として設定されるのですね。その分、周りの人物が活躍します。ピュアな男って、ふつう面白みがないわけですよ。

 ところが『鬼滅の刃』では、中空構造の化身であるかのような炭治郎が、自ら大活躍してしまうのです。作者の理想化された理念を体現した中空構造が、産屋敷耀哉と炭治郎に分裂しているのですね。ゾシマ神父とアリョーシャみたいなものでしょうか。

 しかも、その活躍の仕方には、どこかヒーローらしからぬところがあります。炭治郎はヒノカミ神楽という特殊な技を継承した特異点として位置づけられ、多少の主人公感はあるものの、あくまで隊士の一人として総合的な戦術の中で頑張っている。役職と階層の明確な企業体の中で、最近めきめきと頭角を現してきた平社員として、特別に役員会議に混ぜてもらっている半沢直樹みたいなポジションです。悪目立ちはしているものの、ちゃんと自分の職分は守って組織の中で忠実に動いています。

 

 かつてのヒーローは、概してスタンド・アローンでした。抜け忍カムイと、それを追う○○十人衆みたいに、敵は複数、こっちは一人みたいなパターンになりがちだったのです。大勢の敵に囲まれた状況から血路を開く、というのがチャンバラ時代劇からヤクザ映画にいたるまで脈々と受け継がれたテンプレートでした。

 

 しかしジャブ系バトルは、わりと昔からチームプレイなんですね。とりわけ『鬼滅の刃』ではチーム制のスタイルが徹底していて、強大な一体の敵に数人がかりで戦う、みたいなパターンも珍しくありません。無敵のバケモノが相手の場合、それは必ずしも卑怯なわけではなく、集団戦でゴジラを殲滅する、みたいな意識になっているわけです。

 

■スポーツマンガとマンガ内時間

 

 そして敵味方にかかわらず、一人一人のキャラクターの来歴を、非常に丁寧に描いている点も特徴的です。これが、主人公の敵に対する憐憫の表現として効いてくるのですね。それはしばしば、戦いのさなか、あるいは決着がつく直前に起こる走馬燈のような表現として差し挟まれます。

『鬼滅の刃』に限らないのですが、マンガにおける時間の流れは伸縮自在で、実時間では数秒にも満たない間にキャラクターたちは、いろいろなことを考えるのですね。ときには切羽詰まった激闘の最中に、

「なぜ、それほどまでにしてお前は戦う」

「お前のその考え方、絶対に許せない!」

 などと思想信条をめぐる言葉の応酬が始まってしまうことも珍しくありません。

 こうしたマンガ内時間の伸縮性は、野球マンガをはじめとするスポーツもので発展した手法でした。

 他の国には見られない日本のマンガの際だった特徴として、非常に膨大な数のスポーツマンガがある点が挙げられます。

 スポーツマンガというのは、基本的に試合につぐ試合の連続なのですが、それを通して人情の機微を描いていくところに作家の手腕が発揮されます。その技法を最も得意とし、洗練させていった第一人者は、いうまでもなく水島新司でした<*2>。

 野球マンガでは、投手がモーションに入ってから、バットが投球を捉えるまでの、コンマ数秒の間に、選手はもとより、野球解説者や観客たちが、たくさんのことをしゃべり、考えます。ときにはバッターがスイングする瞬間に回想シーンが開始され、連載数回分にわたって、キャラの知られざる過去が語られることも珍しくありませんでした。

 こうした人情物語が、詞に対する辞のように全体を包摂することによって、ドラマ構造そのものが、単なる勝ち負けを巡る殺伐としたゲーム性を超えていくのです。

 

■ほんとは暗い吾峠呼世晴

 

 このように『鬼滅の刃』は、どこまでもピュアな主人公が、ピュアさを全く毀損されないまま、激しいバトルを繰り広げる物語なのですが、連載開始前の初期作を読んでみると、吾峠先生の中には、実はちょっとあやういインモラルなセンスもあって、そこをうまくコントロールしているようにも見受けられるのですね。

『鬼滅』連載前の習作を集めた『吾峠呼世晴短篇集』(集英社)を読むと、今とはかなり違ったトンガッた作風に驚かされます。

 同じ中二病的なペンネームである『進撃の巨人』の諌山創先生と雰囲気が似てますね。諌山先生は、そのままの作風で突っ走っていったのですが、吾峠先生は、かなり「ジャンプ」寄りに軌道修正して、万人受けするやさしい作風に変えています。

『短篇集』に掲載されている作品は、最初の投稿作である「過狩り狩り」以外は、全て連載を想定されて描かれたもののようですが、どの作品も魅力的ですね。しかし連載しても大ヒットはしなかっただろうなあ。

 しかしこれがあってこその『鬼滅の刃』なのですね。炭治郎の、澄んだ青空の裏には、実は深い闇が広がっているのです。

(吾峠呼世晴『吾峠呼世晴短編集』集英社)

 

 友情やガンバリズムの陰に隠れて見えにくくなっていますが、全編に漂う血生臭さは、やはり格別なものがあります。吾峠先生の暗い情念のようなものが噴出するシーンも少なくありません。ラスボス鬼舞辻無惨の邪悪さの表現などもそうですね。

 鬼舞辻の冷酷さが最高度に発揮されるのは、やはり無限城集合会議の場面で、下弦の月を次々に処分していくエピソードです。まるで山本直樹『レッド』(講談社)の山岳アジトのように、自陣営の戦力を一方的に削っていくという不条理な展開。あれで敵キャラがだいぶ減って、連載が大幅に短くなっちゃったんじゃないでしょうか。

 あのへんの圧縮ぶりは、かつての永井豪「デビルマン」<*3>を思い出させます。

 

■フォークロアの文法

 

 究極の敵、いわゆるラスボスをどういうふうに造形するかというのも、バトルマンガの要となる部分ですが、「鬼滅の刃」では、わりに早い段階で、あっさり登場させ、その人物像も、ある程度クリアに表現してしまっているのも面白いところです。

 私みたいに古いタイプの人間が思い描くラスボスって、だいたい首から上が影だったり、もったいをつけて、その実態がなかなかつかめないものだったりしたのですね。

 極めつけは平井和正・石森章太郎の「幻魔大戦」で、ラスボスは、ほとんど表象不可能なほどに全宇宙規模の絶対悪であり、マンガ版でも原作版でも、最後まで姿を現さないのですが、実際に戦う相手はザメディボールなどの小者だったりしたわけです。

 

『鬼滅の刃』では、そういった敵勢力の野放図な拡張には、極めて禁欲的で、あくまでフォークロアのレベルに、きれいにまとめ上げています。

 ラスボス鬼舞辻は、たしかに強烈なほどの邪悪なオーラを発散してはいますが、人間は「小さい」感じがします。結局永遠の命を生きながらえたいというような私欲に終始していて、世界を根源的に邪悪なものに改変してやろうというようなゼーレ風の意味不明な野望は微塵もありません。

 こうした輪郭のつかみやすいキャラや世界観のもとで全てが進行していることも、万人に受け入れられやすい要素の一つかもしれません。

 

 また物語がフォークロア的ということは、キャラクターの実存的な問題に鋭角的に切り込むことはない、ということでもあります。物語の展開の中で、たとえばなんらかのダブルバインド状況を設定することによって、モラルのキワを攻めていく、ということもあまり積極的にはやっていません。たとえば禰豆子などは、かなり境界的な存在で危なっかしい感じがするのですが、そこはあんまり深掘りせず、ふつうに素直に鬼と戦っていましたね。

 主人公が、ある種のトロッコ問題的な状況にはまり込んで、一瞬モラルのキワにさらされるシーンとしては、禰豆子が太陽の光を浴びて死にそうになるシーンが思い浮かびます。あそこで炭治郎は決定的な決断を迫られるわけですが、そこも作者はうまく回避して、スティグマを背負わないように処理していました。私のなんとなくの推測ですが、作者にはもともと、物語を救いのない展開に持って行くセンスを十分に有していながら、うまく舵を切ってバランスを取っているようにも見えます。

 

 吾峠呼世晴には、まだまだ発掘されていない大きなポテンシャルが隠されているのではないでしょうか。かつて「ジャンプ」を離れた井上雄彦が、さらに新しいフェイズに入っていったように、いつの日か、吾峠呼世晴が、これまでと全く違う作風の作品で私たちを驚かせてくれるのではないかと、ひそかに期待しているのです。

 

 

◆◇◆吾峠呼世晴のhoriスコア◆◇◆

 

【圧の強い構図】94hori

バトルシーンの描写も連載が進むにつれケレン味が増していきました。

 

【目鼻口】75 hori

特に両目の離れ具合がちょっと違うだけで全然違う顔になり、何度も描き直しました。

 

【多角形】86 hori

模写していて初めて気がついたのですが、虹彩自体も角ばっているのですね。こんな不思議な瞳を描く人は珍しいのではないでしょうか。

 

 

  • ◎●ホリエの蛇足●◎●

 

(*1) 勧善懲悪ものに見える「仮面ライダー」

かつて批評家の宮台真司氏は、金城哲夫らウルトラシリーズの脚本の素晴らしさをたたえる文脈で、「仮面ライダー」に見られる情け容赦のない勧善懲悪ぶりを、一種の退行として捉えていました。

 

<*2>水島新司

水島新司は、もともと貸本劇画の出身で、『劇画漂流』(辰巳ヨシヒロ)でおなじみ日の丸文庫の山田社長のもとで住み込みの社員兼作家をしていたこともありました。花登筐など上方喜劇の影響を受けた涙と笑いを主軸とした人情ものを得意とし、貸本末期の頃には、白土三平や、さいとう・たかをと並ぶほどの人気作家だったといいます。大手誌に進出し、もっぱら野球マンガばかり描くようになってからも、持ち前のカラーは失わず、人情の機微を描かせれば天下一品でした。井上雄彦は、水島新司の大ファンだったといいますから、『スラムダンク』を通して、「ジャンプ」に水島ミームが流れ込んだと考えると面白いですね。

 

<*3>永井豪「デビルマン」

「デビルマン」の急展開は、テレビ版終了に合わせて、連載の切り上げを要請されての苦肉の策だったようですが、そのことが結果的に、あの作品を珠玉の大傑作にさせました。とはいえ、もっとも絶好調だった頃の永井豪ですから、連載が長く続いていたら、きっと傑作エピソードがたくさん描かれていたのだろうと思うと、ちょっと残念な気もします。

 

「マンガのスコア」バックナンバー

 

アイキャッチ画像:吾峠呼世晴『鬼滅の刃』13集英社


  • 堀江純一

    編集的先達:永井均。十離で典離を受賞。近大DONDENでは、徹底した網羅力を活かし、Legendトピアを担当した。かつてマンガ家を目指していたこともある経歴の持主。画力を活かした輪読座の図象では周囲を瞠目させている。