発声の先達、赤ん坊や虫や鳥に憑依してボイトレしたくなりました。
写真は、お尻フリフリしながら演奏する全身楽器のミンミンゼミ。思いがけず季節に先を越されたセミの幼虫たちも、そろそろ地表に出てくる頃ですね。

■2022.10.26(水)
式目演習が始まって最初の課題提出締切日。
演習の様子は、個々の凹凸や遅速はあれど、全体的には順調極まりないように見える。38[花]はプレワークこの方、入伝生たちの冗長度がかつてないレベルでホドが良く、編集的なゾウダンの気風に富んでいる。
講座の雰囲気が毎期異なるのは当たり前のことなのだが、今期当初から既に醸成されている(ように見える)相互編集のカマエは、集まったメンバーの資質に由来するものなのか、[守][破]の編集稽古で培われたものなのか、注意深く観察して行きたい。
一方、指導陣も活発に言葉を交わし合っている。言うまでもなく編集稽古における最大最強のツールは「言葉」なのだが、こと花伝所指導陣の風姿を見るにつけ、言葉以上に「ふるまい」が際立って来ていることを、前期37[花]頃からはとみに感じている。
何であれ思想や概念は言語化されることによって共有知となり、洗練されて行く。やがて洗練された言葉が行為を伴って実践されると、思想は個々の身体で体験され、受肉する。そして言葉は再びツールとなって、受肉された思想へフィードバックを返しながら、智慧の体系を編み上げて行く。
[花伝所]師範ボード発言数の推移
◆編集学校の各講座には当期指導陣のみが集う「師範ボード」がEditCafe上に用意されており、講座運営のための様々な準備のみならず、諸々の情報共有と交換、仮説形成及びフィードバックなどが行われている。
◆花伝所では、錬成師範が道場付として式目演習をサポートする体制が導入された35[花]以降、指導陣同士の意見交換が劇的に活性した様子がグラフから見て取れる。
■2022.10.27(木)
今期初めて花伝師範として立って道場を預かる阿久津健が、深夜のキッチンに立ってスフレを焼いた。
スフレチーズケーキは、なんと日本発祥で、海外では「Japanese Cotton Cheesecake」と呼ばれているのだという。阿久津は、編集ニッポンならではの「半生」を表現する画像素材を求めて、そのためにわざわざココットに生地を流し、オーブンのタイマーを15分にセットしたのだ。
焼き上がったスフレは、何パターンかの構図を撮影するうちに萎んでしまったと阿久津は悔やんだが、半ナマのコットンチーズケーキに「最大限に開かれる瞬間」があることは何とも示唆深い。
阿久津がエディスト記事に添えるアイキャッチのために焼いたスフレ。
よく見ると気泡の逃亡経路までも観察できて、
その膨らみが意地らしくも、儚げにも見える。
なるほど「半生」という状態は、フラジャイルだがコンティンジェンシーに富んでいる。成長段階や作業プロセスを測る尺度で捉えれば不完全で未完成の状態ではあるが、まだ何者にでも変容できる余地が残されている。それでいて、手つかずのままの「raw」ではないところが心憎い。
半生は、既に何かの道半ばにあって、自己の来歴と志を意地らしく主張しながらも、そこに潜在する未然の可能性を儚げに表象しているのだ。つまり、半生とは「時分の花」なのである。
■2022.10.29(土)
そもそも花伝式目5Mが「Model(型)」から始まること自体が、大いなるQではないか。たとえば、5Mが「モード」や「メトリック」や「マネージメント」から始まったとしたらどうなのか?
編集稽古は学衆と師範代の間で交わされる「エディティング・モデルの交換」である。学衆には初めからそんな自覚はないだろうが、花伝式目は学衆を「編集的な型」として捉えることを教えている。学衆と師範代それぞれの「型」が交わるから「モデル交換」なのだ。
では、学衆を「個人」として尊重しながらコミュニケーションすることと、「エディティング・モデル」として捉えてモデル交換することとはどう違うのか?
上の問いに答えるためには、「モデル」を他の4つのMと並列に置いて考えるべきではないだろう。「モデル(型)」は、「モード(様)/メトリック(程)/マネージメント(掛)/メイキング(組)」の上位概念なのだ。
もちろんモードやメトリックが「モデル」を生んではいるのだが、「モデル」は自身を構成する要素までをも「型」と捉える視点を提示している。つまり「モデル(型)」は自己言及的かつ自己相似的な性質をもつのだ。
「型」についての3つの仮説
1)ものごとの意味や価値とは、すなわち「型」である。
2)「わたし」は「型」を通して社会と接地する。
3)別様可能性は「型」によって発見される。
私は美容師だから、ヘアスタイルという「型」を提供することを生業としている。だからこそ思うのだが、型とは決して静的で普遍の造形ではない。型は、気分やムードを孕んでいるし、志や願いや、迷いや混乱までをも含んでいる。型とは、まるで動的な生命そのものだ。
そう考えると、やはり「型」は大いなるQである。型はただそこにいて「あなたは型に気づくことができますか?」と、私たちに問いかけている。気づいたとすれば、その気づきは私たちにとってどのような体験なのか。そして「その体験によって何が起きていてるのか?」と。
アイキャッチ:阿久津健
深谷もと佳
編集的先達:五十嵐郁雄。自作物語で語り部ライブ、ブラonブラウスの魅せブラ・ブラ。レディー・モトカは破天荒な無頼派にみえて情に厚い。編集工学を体現する世界唯一の美容師。クリパルのヨギーニ。
一度だけ校長の髪をカットしたことがある。たしか、校長が喜寿を迎えた翌日の夕刻だった。 それより随分前に、「こんど僕の髪を切ってよ」と、まるで子どもがおねだりするときのような顔で声を掛けられたとき、私はその言葉を社交辞 […]
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花伝式部抄::第20段:: たくさんのわたし・かたくななわたし・なめらかなわたし
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2025-07-01
発声の先達、赤ん坊や虫や鳥に憑依してボイトレしたくなりました。
写真は、お尻フリフリしながら演奏する全身楽器のミンミンゼミ。思いがけず季節に先を越されたセミの幼虫たちも、そろそろ地表に出てくる頃ですね。
2025-06-30
エディストの検索窓に「イモムシ」と打ってみたら、サムネイルにイモムシが登場しているこちらの記事に行き当たりました。
家庭菜園の野菜に引き寄せられてやって来る「マレビト」害虫たちとの攻防を、確かな観察眼で描いておられます。
せっかくなので登場しているイモムシたちの素性をご紹介しますと、アイキャッチ画像のサトイモにとまる「夜行列車」はセスジスズメ(スズメガ科)中齢幼虫、「少し枯れたナガイモの葉にそっくり」なのは、きっと、キイロスズメ(同科)の褐色型終齢幼虫です。
添付写真は、文中で目の敵にされているヨトウムシ(種名ヨトウガ(ヤガ科)の幼虫の俗称)ですが、エンドウ、ネギどころか、有毒のクンシラン(キョウチクトウ科)の分厚い葉をもりもり食べていて驚きました。なんと逞しいことでしょう。そして・・・ 何と可愛らしいことでしょう!
イモムシでもゴキブリでもヌスビトハギでもパンにはえた青カビでも何でもいいのですが、ヴィランなものたちのどれかに、一度、スマホレンズを向けてみてください。「この癪に触る生き物をなるべく魅力的に撮ってやろう」と企みながら。すると、不思議なことに、たちまち心の軸が傾き始めて、スキもキライも混沌としてしまいますよ。
エディスト・アーカイブは、未知のお宝が無限に眠る別銀河。ワードさばきひとつでお宝候補をプレゼンしてくれる検索窓は、エディスト界の「どこでもドア」的存在ですね。
2025-06-28
ものづくりにからめて、最近刊行されたマンガ作品を一つご紹介。
山本棗『透鏡の先、きみが笑った』(秋田書店)
この作品の中で語られるのは眼鏡職人と音楽家。ともに制作(ボイエーシス)にかかわる人々だ。制作には技術(テクネ―)が伴う。それは自分との対話であると同時に、外部との対話でもある。
お客様はわがままだ。どんな矢が飛んでくるかわからない。ほんの小さな一言が大きな打撃になることもある。
深く傷ついた人の心を結果的に救ったのは、同じく技術に裏打ちされた信念を持つ者のみが発せられる言葉だった。たとえ分野は違えども、テクネ―に信を置く者だけが通じ合える世界があるのだ。