をぐら離 文巻第5.5週 ─「縁起と編集」

2021/01/24(日)09:52
img

 世界読書奥義伝 第14季[離]は、休信週でしたが、今まででいちばん濃い稽古を繰り広げる1週間。をぐらも様々な締め切りが一度に到来し、日常業務も難症例続きのワイルドな日々でした。
 「をぐら離」では、析匠、小倉加奈子の日常を通した離の姿をお届けしていきます。門外不出の文巻テキストをもとに進められていく離の稽古の様子を少しでも想像いただければと思います。

 

1月17日(日)


 「縁起」については、三枝さんはずばり「関係の同時性」だと思えばよろしいと言われる。三枝さんはまたコップを例に持ち出して、コップをガラスとか容器とか日用品とか物体とかと見られるように、さまざまな関係を同時に感じられるかどうか、それが縁起思想の根本になると言う。
──千夜千冊1249夜『大乗とは何か』


 朝、息子を再び玄関先での“がんばれ踊り”で送り出す。その後は1日、昨日の倉谷講義を思い出しつつ、離の稽古を見守りつつの執筆仕事。この「つつ」の連続が縁起である。ご縁がありますねと人との関係性ばかりを縁起だと思い込むと狭くなる。わたしたちは絶えず目の前の情報に対して編集をしているのだから、すべてを縁起的にみることができる。SDGsもキーワードは縁起じゃないかと思うがどうだろうか。仏教は世界を変えられるのか。

 

1月18日(月)


 というようなわけで、ホワイトヘッドはそのような「かかわり方」の一番小さな単位をアクチュアル・エンティティと呼んだわけである。そして、このアクチュアル・エンティティが「縁起する」というふうに考えた。
 縁起というのは仏教用語だから、ホワイトヘッドはそんなふうには言わずに、「経験の生起」とか、「アクチュアル・オケイジョン」(actual occasion)と言った。アクチュアル・オケイジョンは「活動的生起」などと訳す。まあ、用語はどうであれ、世界はそこに、そこから、いつでも、急速に、われわれのかかわり方を巻きこんで、生起しているわけである。
──千夜千冊1267夜『ホワイトヘッドの哲学』


 朝から小さな頼みごと、困りごと、相談ごとが次々舞い込む。どれも患者さんにとって、一番望ましいことがそれぞれの編集のターゲットである。これらのアクチュアル・エンティティが病理診断すべての動向、方向性を決めている。セイゴオの生き方の「小さめ」の発見や「小こそが大を超える」ともつながる。

 

 

1月19日(火)


 ホワイトヘッドはヨーロッパの近代社会と近代科学が「なる」の思想を喪失していったことを嘆くのである。
 そのようなホワイトヘッドの哲学は、もっぱら「有機体の哲学」とか、「プロセスの哲学」とよばれてきた。
――千や千冊995夜『過程と実在』


 今週も午前外勤、午後はゴートクジ。MEdit Labの映像教材やワークブックのブラッシュアップのための打ち合わせ。穂積くんのデザインが映像のテロップやワークブックに投入され、俄然面白いプロダクトになっていく。“なっていく”わくわく感の共有がたまらない。ワークブック内容も吉村ディレクションで変更をどんどんかけていく。話がついつい「編集と編集工学の違いは?」「コンパイルって何?」などなどいろいろと脱線するために時間が飛ぶように過ぎた。いつも通りのミーティング。いつも通りをありがたいと思う。

 

1月20日(水)


 コンパイルの特徴は「情報の相互規定性」というものにある。だからさまざまな情報アイテムや情報フレーズを比較し、その相互の規定関係をはっきりさせる。
──松岡正剛『知の編集術』


 朝から晩まで離、MEdit Lab、病理診断の3つを密にコンデンスした1日。夜、松岡火元校長、太田香保総匠、田母神顯二郎方師とのオンライン会議。校長ご自身のコンパイルからエディットまで、その編集の詳細をとことん伺った。
 「コンパイルの目指すべきはシソーラスだよ」という言葉が刺さった。シソーラスが豊かでないとエディットは始まらない。コンパイルとエディットの連結はシソーラスなのである。64編集技法の最初の5つの編纂技法は、ある物事の定義づけに用いられるグロッサリーを[01収集]、[02選択]、[03分類]しながら、シソーラスの[04流派]と[05系統]を広げていく。それらの豊かなシソーラスによって、“これでアナロジーが存分に効くな”、というレベルまで行くことがコンパイルの目指すところなのだそう。


 

1月21日(木)


  カタルは言葉で語ることをいいます。だから「語りうることは明瞭に語られうる」というのは、ちょっとでもそのモノ・コト・セカイについてカタルができるのなら、とことんカタル言葉をふやせるという意味です。どんなカタルの断片にもそこには必ず同義性やシソーラスのような要素がいっぱい潜んでいて、いったんカタルを始めると、その潜在的な同義性が次々にあらわれてきて、カタルだけの関係を出尽くさせることができるだろうというのです。
──千夜千冊833夜『論理哲学論考』


 昨夜のコンパイルの話を伺ってから、この千夜を読むとまた違った見方ができる。「わたくしの言語の限界が、わたくしの世界の限界を意味する」。この「言語」の部分をコンパイルに置き換えるのはいささか乱暴すぎるが、編集におけるコンパイルを尽くすことの大切さを実感できる。でも、前期のヴィトゲンシュタインはちょっと孤独すぎるように思う。後期でようやく他者入りの編集に向かえる。これまた縁起的だ。空と縁起とヴィトゲンシュタイン。

 

1月22日(金)


 松岡座長:
 今の社会に一番欠けているのが「半信半疑」なんです。曖昧領域を消して、本物と偽物を区別する。「どうかな」っていう状態、グレーゾーンがなくなって、二者択一か多様性。だから、半信半疑を展示するっていうのには、ありとあらゆる技術を使った方がいいんですよ。

──加藤めぐみ【AIDA】KW File.06「半信半疑」


 LISTedit記事の相棒、カトめぐちゃんのAIDA記事がアップ。待ってたよ。「荒俣ワンダー秘宝館」の魅力もいっぱい。荒俣さんも「ワンダーは小さいものに宿る」と言っていた。そして、なんといっても松岡座長の「半信半疑論」は面白い。思考が潔癖すぎる人が多いように思う。初志貫徹、首尾一貫性を求めすぎて半信半疑を自分の中から追い出し過ぎなのだろう。if-thenのthenはいつだって置き直していいんだ!と、思いながらMEdit Labのワークブックを執筆する。

 

 

1月23日(土)


 思想というものは主題にしがみつく。他方、職人と商業は述語と方法を神とする。パサージュとは通過することだ。通過とは、茶碗でいうなら轆轤で成形をして窯に入れ、これを引きずり出すことである。読書でいうなら書物を店頭から持ち出してページを切り開くことである。
 これらは述語的な行為というものだ。むろんそれらの行為にはあらゆる意図がからみあう。けれどもその行為はいずれは終わる。終わってどうなるかといえば、それはどこかに配列されて布置される。述語として散っていく。それを膨張させたのが都市というもので、社会というものなのである

──千夜千冊908夜『パサージュ論』


 毎週、だいたい週の半ばに「やばい、をぐら離書かなくちゃ」と焦ってくる。でも、気持ちが動いた日からとりあえず書き始めると、そこから連鎖的に他の日のことが書ける。一緒に選ぶ千夜千冊も見えてくる。自分の日記なのに、自分の思考ではないみたいで不思議な感覚である。述語的ってこういうことなのかな?どうなのかな?

 

 

【をぐら離】

をぐら離 文巻第0週

をぐら離 文巻第0.5週

をぐら離 文巻第1週

をぐら離 文巻第2週

をぐら離 文巻第3週

をぐら離 文巻休信週

をぐら離 文巻第4週

をぐら離 新春特別便「セイゴオの生き方・対談もどき」前篇

をぐら離 新春特別便「セイゴオの生き方・対談もどき」後篇

をぐら離 文巻第5週

 


  • 小倉加奈子

    編集的先達:ナシーム・ニコラス・タレブ。病理医で、妻で、二児の母で、同居する親からみると娘、そして師範であり火元組。仕事も生活もイシスもすべて重ねて超加速する編集アスリート。『おしゃべりな図鑑』シリーズの執筆から経産省STEAMライブラリー教材「おしゃべり病理医のMEdit Labo」開発へ。おしゃべり病理医の編集的冒険に注目!