[週刊花目付#005]「座学」のカマエ

2020/11/24(火)10:29
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週刊花目付

 

 式目演習4週目のテーマは「Management」(掛/営)だ。

 指南編集のための演習課題は昨夜でひとまず締め切られ、今週は教室運営についてのアレコレをじっくりと考察する。いわば「場の編集」へ臨むための座学である。

 

 「座学」という言い方を敢えてしたが、ただデスクの前に座して課題に応じる作法はイシスの流儀ではない。「マネージメント」という標題の裏には、イメージメント」と呼ぶべき編集蠕動が雄飛していることを忘れてはならない。

 「マネージする」とは、「運用」「運営」といった訳語が示すように、対象となる物事のハコビを動的に推進、差配する営為である。その際、現場のダイナミズムを総合的に捉え、能動的に仮説を起こし、臨機応変にフィードバックする編集感覚が「イメージメント」(*)だ。

 マネージをイメージし、そのイメージをマネージすることで「場の編集」は加速する。すなわち、イシス流の座学は「座ってする学」の意ではなく「(≒場)の学」であり、カマエは中腰の体勢をイメージするべきなのだ。

 

イメージメント

【平尾】ラクビーには静的な要素と動的な要素があるんです。静的なものはだいたいデータになりますね。たとえばスキルもデータになるし、相手の情報もデータになる。それはそれで活用します。しかし、もうひとつ動的なものがあって、それはイメージにしかならないんですが、それがはたらかないとダメなんです。静的なマネージメントをしておき、それとは別にイメージは試合中に動き回る。

【松岡】まさに「イメージメント」だな。

『イメージとマネージ~リーダーシップとゲームメイクの戦略的指針』(平尾誠二・松岡正剛、集英社)より

 


2020.11.17(火)

 

 田中晶子花伝所長、三津田知子花目付と、式目演習の後半戦に備えてzoomで作戦会議。

 

 [花]の盛りは、指南錬成演習、指南編集トレーニングキャンプ花伝敢談儀と相次いで訪れる。座学のカマエを実践のハコビへ昇華するイニシエーションだ。
 その設営の構造について、データカプタ(*)とアブダクションを持ち寄って、イメージメントを交わし合う。

 

データ

コンピュータに入力された数字のように、意味の固定された情報。

カプタ

ふとした会話のなかで発せられた言葉のように、いろいろな見方のできる情報。

 

 ISIS花伝所に託されている師範代プロジェクトは、つまるところ「編集的自己」(エディティング・セルフ)を養成する事業だ。編集的自己は、式目演習や師範代登板の体験を通してこそ培われる。プログラムされたアプリをダウンロードするようなスマートな作業ではない。
 能動的に相互編集の起点に立つカマエをいかに誘うか。そこに発露するエディティング・キャラクターをどう輝かせるか。

 イニシエーションの仕立てと設えは、なかなかに悩ましい。何故なら、機に及んでキラーパスを放つのはプレイヤー自身なのだから。

 


2020.11.19(木)

 

 錬成師範網口渓太は距離感を測りかねていた。

 M3「メトリック」の演習模様をカットアップするのに際し、入伝生たちがセンシティブに理解を進めている状況に、網口は観察者としてどこまで踏み込むべきかを躊躇ったのだ。

 

 暮夜に配信された花伝スコアの第3集は、勝負所はまだ先にあるとみた編集だった。1行を29文字に揃えた右欄外には、その端正な段組みには不釣り合いなホドのハミ出し具合で、ささやかな応援コメントが添えられていた。
 レイアウトのアンバランスは、網口の確信的な犯行なのだろう。まるでレーニンの『哲学ノート』を再現するかのような、余白への侵犯だった。逸脱が、よくよく練られていた。

 

 ゲームメイカーがパスのコースをサーチするように、エディストは編集可能性の余白をイメージメントする。
 そのときマネージされるプロトコルは、テキストによるものばかりではない。場をマネージするのは、ホストロールによる「もてなし」「ふるまい」「しつらい」の三位一体なのだ。

 

 

2020.11.20(金)

 

 道場で花伝師範のマネージメントが静かに滲出している。

 編集稽古は言葉によって運ばれる。その言葉の速度と濃度と温度と質量を、花伝師範は「」と「」でマネージしている。ときに北風のように、ときに太陽のように。

 

 わかくさ道場では小川玲子師範が大小の「問」を連打して思考の加速を促し、やまぶき道場では白川雅敏師範が「型」を差し出し連想の着地点を探る。
 くれない道場は竹川智子師範が言葉の洗練で「ふるまい」を示し、むらさき道場は林朝恵師範が場外からの風を連れて「もてなし」で労う。
 これらのアクションは、どれも偶発的なアフォーダンスではない。場の現状に感応し、自他の差し掛かりを引き受け、編集の行方をマネージするアブダクティブ・アプローチなのだ。

 

 「偶然」に「やってくる偶然」と「迎えにいく偶然」があるように、アフォーダンスにも「誘う」「誘われる」の二極がある。

 マネージメントとは、戦略的なアフォーダンスでもあるのだ。

 

>>次号

  • 深谷もと佳

    編集的先達:五十嵐郁雄。自作物語で語り部ライブ、ブラonブラウスの魅せブラ・ブラ。レディー・モトカは破天荒な無頼派にみえて情に厚い。編集工学を体現する世界唯一の美容師。クリパルのヨギーニ。

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コメント

1~3件/3件

川邊透

2025-07-01

発声の先達、赤ん坊や虫や鳥に憑依してボイトレしたくなりました。
写真は、お尻フリフリしながら演奏する全身楽器のミンミンゼミ。思いがけず季節に先を越されたセミの幼虫たちも、そろそろ地表に出てくる頃ですね。

川邊透

2025-06-30

エディストの検索窓に「イモムシ」と打ってみたら、サムネイルにイモムシが登場しているこちらの記事に行き当たりました。
家庭菜園の野菜に引き寄せられてやって来る「マレビト」害虫たちとの攻防を、確かな観察眼で描いておられます。
せっかくなので登場しているイモムシたちの素性をご紹介しますと、アイキャッチ画像のサトイモにとまる「夜行列車」はセスジスズメ(スズメガ科)中齢幼虫、「少し枯れたナガイモの葉にそっくり」なのは、きっと、キイロスズメ(同科)の褐色型終齢幼虫です。
 
添付写真は、文中で目の敵にされているヨトウムシ(種名ヨトウガ(ヤガ科)の幼虫の俗称)ですが、エンドウ、ネギどころか、有毒のクンシラン(キョウチクトウ科)の分厚い葉をもりもり食べていて驚きました。なんと逞しいことでしょう。そして・・・ 何と可愛らしいことでしょう!
イモムシでもゴキブリでもヌスビトハギでもパンにはえた青カビでも何でもいいのですが、ヴィランなものたちのどれかに、一度、スマホレンズを向けてみてください。「この癪に触る生き物をなるべく魅力的に撮ってやろう」と企みながら。すると、不思議なことに、たちまち心の軸が傾き始めて、スキもキライも混沌としてしまいますよ。
 
エディスト・アーカイブは、未知のお宝が無限に眠る別銀河。ワードさばきひとつでお宝候補をプレゼンしてくれる検索窓は、エディスト界の「どこでもドア」的存在ですね。

堀江純一

2025-06-28

ものづくりにからめて、最近刊行されたマンガ作品を一つご紹介。
山本棗『透鏡の先、きみが笑った』(秋田書店)
この作品の中で語られるのは眼鏡職人と音楽家。ともに制作(ボイエーシス)にかかわる人々だ。制作には技術(テクネ―)が伴う。それは自分との対話であると同時に、外部との対話でもある。
お客様はわがままだ。どんな矢が飛んでくるかわからない。ほんの小さな一言が大きな打撃になることもある。
深く傷ついた人の心を結果的に救ったのは、同じく技術に裏打ちされた信念を持つ者のみが発せられる言葉だった。たとえ分野は違えども、テクネ―に信を置く者だけが通じ合える世界があるのだ。