ハイパーコーポレートユニバーシティ – 遊刊エディスト:松岡正剛、編集工学、イシス編集学校に関するニューメディア https://edist.ne.jp Mon, 09 Aug 2021 15:50:15 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.8.1 https://edist.ne.jp/wp-content/uploads/2019/09/cropped-icon-512x512-32x32.png ハイパーコーポレートユニバーシティ – 遊刊エディスト:松岡正剛、編集工学、イシス編集学校に関するニューメディア https://edist.ne.jp 32 32 185116051 イシスDO-SAY 2021年7月 https://edist.ne.jp/list/isis_do-say_202107/ Sat, 10 Jul 2021 00:34:36 +0000 https://edist.isis.ne.jp/?p=28144  

イシス編集学校で予定されている活動をご案内する短信「イシスDO-SAY(ドウセイ)」。

 

先月から全国の書店で、千夜千冊エディション20冊突破記念フェアがはじまっています。みなさんぜひお近くの書店でお楽しみください。ハッシュタグは #知祭り 、皆さんのご参加で祭りが盛り上がります。店頭に足を運んだり、SNSで情報を楽しんだり、千夜千冊エディションを端から読み進めたり、関連本を手に取ったり、関連グッズを手に入れたり、どうぞお楽しみください。

 

今月も皆さんとともに、アレコレDOしてSAYしていきます。それでは7月の「イシスDO-SAY」をどうぞ。

 

 

【2021年7月】

 

2021年7月3日(土)、4日(日) 第35期 ISIS花伝所 キャンプ開催

編集コーチ養成講座である花伝所の終盤、指南編集 トレーニングである「キャンプ」が行われます

▶関連情報 [週刊花目付#18] 「ネガティブ・ケイパビリティ」

 

2021年7月4日(日) 七夕エディッツの会

イシス子どもフィールド主催。七夕をテーマに、暮らしの中の「お題」=「エディッツ」を、大人も子どももワイワイ一緒に楽しむワークショップです。

▶関連情報 イシスの綺羅星による七夕三冊ブックリスト付! 【七夕エディッツの会】申込受付中

 

 

 

2021年7月8日(木) 第77回 感門之盟 IDEA会議

次回の感門之盟に向けて、サポートするメンバーが体が集いキックオフとなるIDEA会議を開催。

 

2021年7月12日(月) 多読ジムSeason7 開始

早くもSeason7となります。お申込みはお急ぎください。読書筋を刺激して、読書筋を大きくしていきましょう。6月には、多読ジムに参加する読衆への多読ジム冊師によるインタビュー【冊師が聞く】シリーズがEdistに登場しました。

▶関連情報 新企画【冊師が聞く01】妻と娘と仕事と読書(松井路代)

▶関連情報 【冊師が聞く】シリーズ 01~07

 

 

2021年7月17日(土)、18日(日) 実香連ベーシック講座

編集工学をワークショップするための研鑽の場。少数精鋭の選抜講座が、いよいよ開催。編集語りのプロ育成へ、寺田充宏師範がナビゲート。修了者はそのままISISフェスタでデビューいただくプログラムです。

▶関連情報 編集ビタミンが利くぜ!寺田充宏のエディット檸檬ツアー

 

 

2021年7月18日(日) AT賞選評会議

[破]で開催される「アリスとテレス賞」(AT賞)の第2回選評会議が行われます。

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2021年7月24日(土) オンライン学校説明会

イシス編集学校へ入門をご検討のみなさまや「編集」にご興味のある方など、どなたでもご参加いただけます。「イシス編集学校で学べることとは?」「編集稽古、「教室」のしくみ」を中心にお話します。Q&Aも心行くまでどうぞ。

▶ 関連情報 「おもてなしが倍返し 学校説明会がリニューアル!」

 

2021年7月25日(日) 輪読座 第四輪

日本哲学シリーズ今季のテーマは「柳田國男を読む」。第4回となる7月は、「口承文芸への拡張」です。今期は、輪読座の様子を宮原由紀師範、上杉公志師範代がエディストしています。

▶関連情報 【輪読座】21世紀にもつながる柳田國男の方法とは?(「柳田國男を読む」第一輪)

▶関連情報【輪読座】蝸牛となる覚悟はあるか?(「柳田国男を読む」第二輪)

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2021年7月27日(火) 第1回 間会 開催

ハイパーエディティングプラットフォーム[AIDA]からうまれた新プログラム、田中優子氏が庵主をつとめる「日本文化サロン 間庵」の第1回「間会」が開催されます。

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2021年7月31日(土) 第35期花伝所 敢談儀 開催

花伝所演習の締めくくりを飾るのが「敢談儀」。入伝生たちがこれまでの演習を振り返り、過剰や逸脱を恐れず「敢えて言葉にする」場です。

▶関連情報 変異するのは新型コロナウイルスだけではない【34[花]敢談儀】

 

★まだまだ続く「千夜千冊エディション20周年突破記念フェア」

全国の書店でお楽しみください。

▶関連情報 各地のフェア、このエディションフェアがすごい!シリーズ

 

 


過去のDO-SAY

イシスDO-SAY 2020年1月】 

イシスDO-SAY 2020年2月】 

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イシスDO-SAY 2021年5月

イシスDO-SAY 2021年6月


 

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【AIDA】KW File.06「半信半疑」 https://edist.ne.jp/list/aida_kw006/ https://edist.ne.jp/list/aida_kw006/#respond Wed, 20 Jan 2021 01:31:36 +0000 https://edist.isis.ne.jp/?p=16613

KW File.06「半信半疑」(2020/12/12-13.第3講)

本コーナーでは、Hyper-Editing Platform[AIDA]の講義で登場したキーワードの幾つかを、千夜千冊や編集学校の動向と関係線を結びながら紹介していきます。

荒俣宏氏:
"あのお方"とは何か。それが分かればいい。

 Hyper-Editing Platform[AIDA]の第3講は、2日間にわたる特別編である。1日目は豪徳寺の本楼、2日目は所沢の角川武蔵野ミュージアムの4F・5Fを借り切って行われた。

 講座のプログラムが始まるまでの自由時間に、座衆は4F・5F以外のエリアを探索した。目玉はもちろん「荒俣宏の妖怪伏魔殿」である。おどろおどろしい真っ赤な門をくぐった先には、原始から現代までを網羅する妖怪絵巻の回廊。翻る垂れ幕を振り仰ぎ、おそるおそる歩みを進める背中に、無数の妖怪の視線が突き刺さる。北海道から沖縄まで、日本全国の妖怪の紹介文に添えられた多様な絵図や文物、東北のカミサマを模した巨大な人形、果てはミイラに化石にと、めくるめく展示がグランドギャラリーを埋め尽くしている。

 プログラムの終盤、松岡座長・隈研吾氏との鼎談の中で「妖怪伏魔殿」のコンセプトを尋ねられた荒俣氏は、「"あのお方"とは何か」、それがここで分かればいいのだと答えた。

 かつての日本には「何となく偉くて怖そうなもの」をただ一言、"あのお方" で済ませていた時代があるという。異様な力を外から与えてくれるもの。ワケの分からないもの。やがて人々は、そのなにものかに神や妖怪といった姿を与え、名づけ、編集していった。各地の特色あふれる妖怪は、人間の根源的な不安や希望が「モノ」として語り交わされることで、長らく息づいてきたのである。

 モノは「物」であり「者」でり、また「霊」である。一個のオブジェには必ずモノザネ、モノダネが生きている。人はそれに幽閉されて、モノ好きはモノ狂いになっていく。

◆松岡正剛『間と世界劇場』199p

荒俣宏氏:
「あのお方だ」というふうに言っていた頃の基本的なアイデアや、肌合いのようなもの。今の会話やコミュニケーションの中では、それがあまりに少な過ぎるんじゃないかという感じがしたんです。一言 "あのお方" で済んでいた時代のイメージを、この妖怪の展示会の中でお知らせしたい。

 とすれば「荒俣宏の妖怪伏魔殿」は、ただ妖怪を紹介するためのものではない。妖怪を、より遡っては "あのお方" を、類としての私たちが半信半疑できていた頃の感覚を、高度なテクノロジーも駆使しながら、直感的に呼び覚まそうとするもの、と穿っても良いのかもしれない。そう感じるほどに、圧倒的に肌にせまってくる展示であった。IT技術を駆使して、妖怪と一緒にダンス(盆踊り)ができるコーナーもある。ここはアフォーダンスの伏魔殿なのだ。

松岡座長:
今の社会に一番欠けているのが「半信半疑」なんです。曖昧領域を消して、本物と偽物を区別する。「どうかな」っていう状態、グレーゾーンがなくなって、二者択一か多様性。だから、半信半疑を展示するっていうのには、ありとあらゆる技術を使った方がいいんですよ。

 半信半疑といえば、角川武蔵野ミュージアムの4Fには「荒俣ワンダー秘宝館」がある。エディットタウンの壁の裏側に位置し、展示物を手に取って見られるコーナーを持つ「半信半疑の地獄」と、生物の美しさや不思議を体感できる「生命の神殿」に分かれる。うっかり迷い込んだヴンダーカンマーに、座衆は少年少女のように驚き、しげしげと見入っていた。

荒俣宏氏:
ここには「UFOのかけら」なるものが置いてあります。こういうものに出会って、第1段階として半信半疑の状態になり、やがてはヌードになって「生命の神殿」で自然との付き合いをもう一回やる。これが面白いんじゃないかなということを考えました。だから、今日の隈さんのお話*は本当に参考になるものでした。

*鼎談の前に隈氏による講義プログラムがあり、有機的な建築、自然の作用・反作用といったことが語られた。

 半信半疑とは、本の読み方にも似ている。本の情報を丸呑み(信)するのは味気ないし、断乎として感化を拒む姿勢(疑)では本は読めない。読んでいるときに「わたし」に何が起こっているのかを慎重に探りながら、内側と外側を少しずつあいまいに交換してゆく、さしかかって分かって変わる、それが半信半疑の生き生きとした読書であろうと思う。

 松岡座長と荒俣氏の共著『月と幻想科学』は、半分だけの表情を見せる月を表紙に飾っている。

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https://edist.ne.jp/list/aida_kw006/feed/ 0 16613
【AIDA】KW File.05「反知性主義」 https://edist.ne.jp/list/aida_kw005/ https://edist.ne.jp/list/aida_kw005/#respond Mon, 30 Nov 2020 02:00:07 +0000 https://edist.isis.ne.jp/?p=16611

KW File.05「反知性主義」(2020/11/14.第2講)

本コーナーでは、Hyper-Editing Platform[AIDA]の講義で登場したキーワードの幾つかを、千夜千冊や編集学校の動向と関係線を結びながら紹介していきます。

 [AIDA]の導入講義において、松岡座長は「ヤバイ日本」を4つの論点へと腑分けしてみせた。曰く「制度疲労・人材払底・構造流動・思考固陋」。11月14日に開催された第2講も、安藤昭子氏が4つの論点を言い換え、再編集したフラッグメッセージから始まった。

安藤昭子氏:
思考固陋というのは、思考のプロセスがあるところでぎゅっと束ねられてしまっている状態です。私たちは「そういうもんだよね」という既知、理解したつもりの中で生きている。「社会って、生きるって、そういうもん」。そのひとつ、たとえば成長神話を追い求めた結果が今日の世界です。本日の石先生の話にも通じますね。私たちを囲む環境はどうなっているか。

 第2講のゲストは、『感染症の世界史』の著者である石弘之氏である。目下の脅威であるウィルスをテーマにした手厚い講義は、まさに生命と文明のAIDAを紐解くもので、感染症ひとつを考える上でも総合的な知性が必要になることを、座衆に強く印象づけた。

石弘之氏:
抜きがたい反知性主義が日本にも横たわっていて、我々がちょっと油断すると噴き出してくる。この危機感を、みなさんと共有したいと思います。

 縦横無尽につながれていく石氏の話題の中から、「反知性主義」というキーワードが飛び出した。互いに連関する「制度疲労・人材払底・構造流動・思考固陋」のうち、とくに最後の「思考固陋」について考える上で、このワードは避けて通ることができない。

 知性は、権力あるいは特権のひとつのあり方として嫉まれているのだ。(…)だが、ここでわれわれの念頭にあるのは、知識人というより専門職であるということもできよう。(…)専門職はつねに、操縦されていると感じる人民の憤激を煽り、イデオローグは社会を転覆されているという恐怖をかきたて、近代化にともなうあらゆる暗鬱な心理的ストレスを高める。

◆リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』31p

 「反知性主義」という言葉については、少し整理が必要だろう。1950年代に使われ始めた言葉で、リチャード・ホーフスタッターが1963年に出版した『アメリカの反知性主義』によって用語として定義された。原題は "Anti-Intellectualism in American Life" であり、アメリカにおいては、キリスト教的平等の立場を下地にして、知的権威やエリート主義(の越権)に異議を唱えるという態度を指す。「反・知性主義」と区切りを打つのが適当だろうか。

 あらかじめ言っておくが、反知性主義は無知性や無教養のことなのではない。(…)「知性一辺倒ではありたくない」というのだから、知性一辺倒の主義主張に反旗を翻したいのだ。それは、権威的知性や知識人の大同団結に対する反発なのである。

千夜千冊 1638夜『アメリカの反知性主義』

 しかし、現代での、あるいは現代日本での反知性主義は「反・知性主義」に留まらず「反知性・主義」にまで発展しており、論の重心もそこに置かれているように思われる。内田樹[編]の『日本の反知性主義』は、「反知性」を「実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度、『自分に都合の良い物語』の中に閉じこもる(あるいはそこで開き直る)姿勢」というタームとして提出している。

 ゆえに、ここで語られているのは、ホーフスタッターの "Anti-Intellectualism" と同義ではない。時代や社会によって言葉の意味の半径は変わるため、私たちは常に、言葉の氏と育ちを参照しながら、今に必要な示唆を選り分けて取り出していかなければならない。

 松岡座長は、石弘之氏との対談セッションの中で、為政者の反知性主義的振る舞いと、政治をはじめとする現代の意志決定のプロセスについて語った。

松岡座長:
何が為政者にああいった振る舞いをさせているのか。僕は、反知性主義的な振る舞いに人気が集まるのは、決して目の前の利益によるものではないと思います。為政者が発するメッセージには「差別」が関わっていて、その差別をあの人は強烈に解除してくれる、あるいは強烈に差別を作ってくれるという期待が、ポピュリズムや反知性主義を支えているのではないでしょうか。

 反知性主義は善意の衝動に寄生して生きているのだから、われわれは知性による手術ともいうべき不断かつ繊細な方法によって、可能なかぎり両者を切り離し、しかも、この手術で善意の衝動を傷つけないようにしなければならない。この方法によってのみ、反知性主義を検証し、抑えることができる。私は完全に除去できるとはいわない。それはわれわれの力の及ばないことであり、さらに、さまざまな悪を完全に除去しようとする情熱を野放しにすることは、現代のすべての妄想とおなじく危険だと考えるからである。

◆リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』20p

 「差別」、境界に関する編集は、「際」や「埒」や「DUST」といった[AIDA]のキーワードにも深く関わってくる。

松岡座長:
逆に、反知性主義をはらんだ政治行動に対抗するときに「民主主義的ではない」という言い方しかできないという貧しさも問題です。私たちは本来、呆れるほど多様な選択を持つべきであるのに、それを二者択一ないしは多数決にまとめてしまう。この制度が、結局は反知性主義を生み出していると思います。

 この後、松岡座長は、高大接続改革の課題を同様の構造的な問題として取り上げ、「容易にマルバツがつけられない、評価が難しい」記述試験の導入に対する頑強な抵抗を例に挙げた。

 私たちはどうしても、あれかこれか、客観的で議論の余地のない唯一の基準を作りたがってしまう。ダイバーシティを尊重しようとする流れは、一見、この二者択一を緩和する動きと思われるが、現状はその多様性を対象化して編集するしくみを生み出すには至らず、評価自体を放棄した相対主義に陥る危険をはらむ。

 イシス編集学校の[守]で学ぶスコアリングは、この放縦に対抗するための方法であり、[破]のプランニングは、さらなる複雑さを編集しながら現実に介入していこうとする試みである。折しも、11月28日(土)には45[破]の伝習座が開催され、[AIDA]の「連」やメディアチームを牽引する福田容子師範が、Hyper-Editing Platformに仕掛けられた「めんどくさい」プランニングの秘密を[破]の師範代たちに伝授した。

松岡座長:
この「めんどくさいもの」に踏み切らない限り、ダメだと思うんです。評価も含めて未知のターゲットXへ、五里霧中なところへ向かって先頭集団が走って行かないと。

 まだ見ぬ「編集的社会像」を構想する[AIDA]は、まさに、複雑さをかきわけての編集を試みるさなかにある。

 私たちは「反・知性主義(知性と権力の過度に固定的な結び付きに対する警戒、批判力)」の存在意義を正しく理解した上で、「反知性・主義」にはあらがっていかなければならないだろう。「反知性・主義」にあらがうとは、世界を知性と反知性とに二分し、自身を知性の側に置いて反知性を糾弾することではない。なぜなら、対立する相手に反知性というレッテルを貼り、異物(あるいは天敵、DUST)として排除し、相互編集を拒否する態度こそが、編集的社会像においては「反知性」的であるからだ。

 あれかこれかのアイダに相似や類似を持ち込み、「制度疲労・人材払底・構造流動・思考固陋」を突破していく方法が模索されている。

 過去のリベラルな社会がもっていた長所のひとつは、多様なスタイルの知的生活を認めてきたことである。(…)現代的条件のもとで、さまざまな選択の道が閉ざされる可能性はある。未来の文化を支配するのは、ひたすら特定の信条のために邁進する人びとかもしれない。たしかにその可能性はある。しかし人間の意志が歴史の天秤を左右するかぎり、人間はそうならないことを信じて生きる。

◆リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』380p

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https://edist.ne.jp/list/aida_kw005/feed/ 0 16611
【AIDA】KW File.04「ヴァルネラビリティ」 https://edist.ne.jp/list/aida_kw004/ Fri, 13 Nov 2020 05:30:37 +0000 https://edist.isis.ne.jp/?p=15760

KW File.04「ヴァルネラビリティ」(2020/10/17.第1講)

本コーナーでは、Hyper-Editing Platform[AIDA]の講義で登場したキーワードの幾つかを、千夜千冊や編集学校の動向と関係線を結びながら紹介していきます。

 2020年11月12日、国内の新型コロナウィルス感染確認数は1634人となり、1日として過去最多を記録した。

 感染症などに対する脆弱性(犯されやすさ)を指して「ヴァルネラビリティ」という言葉が使われることがあるが、今回は「情報」の本質的特徴としてのヴァルネラビリティについて考えてみたい。

松岡座長:
部長、社長、大統領、首相。そういう既存のロールを超えて、席と人と情報の組み合わせを切り替え、新たなロールを作っていかないと駄目だろうと思います。ポジションを持たない動的なロール、入れ替わるロールを。

 Hyper-Editing Platform[AIDA]の第1講・最終セッションでは、大澤真幸氏から「我々(人類)はもう詰んでいる」「できるだけ早く、自分たちはサステナブルではないことを理解して、詰んでいることを受け入れたほうがいい」という問題提起がなされた。(→サステイナブルの矛盾 AIDA第一講 10shot

 世間ではSDGs(持続可能な開発目標)ということが熱心に唱えられているが、その方向ではもう手遅れだ、と大澤氏は一刀両断する。キューブラー・ロスの「死の受容モデル」を援用し、現状に対する構え自体を転換するアプローチは、居並ぶ座衆に大きな衝撃を与えたようだった。

 「最善手ではそのまま負けてしまう。挽回するには悪手が必要だ」。議論はそこから「生産的な悪手」を模索する方向へと進み、いとうせいこう氏の「ダウンサイジングした上で連帯せよ」という提案に注目が集まった。コミュニティを小さく区切った上で、多様な組み合わせを試す。情報と情報のあいだ、いわば間際をつなぐ編集に挑み、「悪手の創発」を目指すということだ。そこには「日本という方法」からヒントを取り入れる余地がある。

松岡座長:
日本には「小さきもの」に対する独特な感覚があります。日本列島はフラジャイルで、建物もすぐに地震で壊れたり、水で流されたりする。だから頑丈なものを作ろう、とはならず、むしろ壊れやすいこと、ヴァルネラブルであることを前提にして、小さきものを愛でる感覚を育てました。

 ヴァルネラブル。ヴァルネラビリティである。語感からして弱々しいこの言葉には、実は過激な可能性が秘められていた。

 この言葉には攻撃誘発性という意味がある。相手からすれば攻撃したくなる感覚である。結果、つまりはいわゆるいじめになるのだが、とはいえたんなる「いじめられやすさ」を意味するのでもない。むしろ、ヴァルネラブルなことによって何かが過剰に相互反応する劇的な可能性のことを言っている。「きずつきやすさ」がヴァルネラビリティの本質であって、そこ「きずつきやすさ」がつねに新たな意図をもちうる場合も多いのだ。

◆松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』38p※文庫

 ヴァルネラブルである、ということの本質は、座長の『フラジャイル』ほか、1125夜『ボランティア』、その『ボランティア』の著者である金子郁容さんの本にあたるのが良いだろう。『ボランティア』では、弱さや攻撃されやすさ、傷つきやすさ、特に自発的に起こしてゆくヴァルネラビリティが、相互編集を起こすための鍵であるということが書かれている。そして、それはボランティアという活動に限ったことではなく、情報社会における新しい価値観であるのだと。本書はインターネット黎明期の1992年に発行されたものだが、未だその論は古びない。

 情報というものはすでにどこかに「あるもの」と考えるのが、静的情報の考え方である。それに対して、情報とは相互作用のプロセスの中から「生まれてくるもの」とするのが、動的情報の考え方である。
(…)
 情報は、蓄えられているだけでは、力を発揮しない。やりとりを交わす過程の中ではじめて、情報に意味がつけられ、価値が発見され、新しい解釈−−ものの新たなる理解や、新しいやり方——が生まれてくる。その、やりとりの中で生まれてくるものが、動的情報である。世の中の既成の枠組みを動かし、新しい関係を切り開き、新しい秩序を作ってゆくのは、動的情報である。
(…)
 バルネラブルであるということは、弱さ、攻撃されやすさ、傷つきやすさであるとともに、相手から力をもらうための「窓」を開けるための秘密の鍵でもあるのだ。バルネラビリティは、弱さの強さであり、それゆえの不思議な魅力があるのだ。

◆金子郁容『ボランティア もうひとつの情報社会』122p-

 ネットワーカーがどこにいるかといえば、それはつねに「あいだ」にいるものだ。また「近さ」にいるものである。
 このようなネットワーカーの本質にはフラジリティがひそんでいる。なぜなら、ネットワーカーの活動は情報を交換する場面をつくりだすことによって知られていくのであるが、もともと情報というものは「弱さ」や「欠如」のほうへむかって流れるものであるからだ。これを「情報のヴァルネラビリティ」というふうにみたらよいかとおもう。私がこの十年ほど熱中して研究している編集工学というものは情報編集の方法をめぐるものであるが、そのばあいも、たとえばAの情報にひそむヴァルネラビリティをとりだしながらBの情報につなげるということを試みる。この「つなぎ」は情報の強さによってではなく、弱さによって成立する。

◆松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』406p※文庫

 ヴァルネラビリティは、埒をあけて「あいだ」をつなぐためのキーワードのひとつである。

 よく似た言葉であるフラジリティは「傷つきやすいものに発動する本来性」「文脈における述語性」「その本質的な脆弱性ゆえに、たとえ外部から破損や毀損をうけることがあっても、なかなか壊滅しきらない内的充実」といったところに、意味の重きがおかれる。何かと何かの関係そのものにフラジリティを見ることもできる。一方、ヴァルネラビリティは、ある主体が持ち、さらに外部から観察しうる弱さ・傷つきやすさ・柔らかさであって、他者とのアクティブな相互作用を引き起こすトリガーである。フラジリティと重なる部分を持ちつつも、そこから起こる動向、その過激な決壊性磁力に焦点をあてて語られる。人や組織や出来事が持っている弱さの可能性を、隠して閉ざすのではなく、つながりの端緒として「取り合わせ」の編集に向かっていくという方法。それは「日本という方法」でもあり、より大きく「生命に学ぶ」べき事柄でもある。

 「生命と文明のAIDA」というサブタイトルを持つ[AIDA]SeasonⅠ、飛びきりのゲストを招いての第2講は、明日、11月14日に開催される。

松岡座長:
「小さきもの」のままで、ある種のゲームが成立し得るということ。それを悪手と見るか面白みと見るか別のモデルと見るかはさておき、いずれにしても、小さきものの中で起こっていることを解読した上で、海外に向けて訴えていく必要があります。

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【AIDA】KW File.03「カットアップ」 https://edist.ne.jp/list/aida_kw003/ https://edist.ne.jp/list/aida_kw003/#respond Thu, 05 Nov 2020 15:00:41 +0000 https://edist.isis.ne.jp/?p=15926

KW File.03「カットアップ」(2020/10/17.第1講)

本コーナーでは、Hyper-Editing Platform[AIDA]の講義で登場したキーワードの幾つかを、千夜千冊や編集学校の動向と関係線を結びながら紹介していきます。

 ガイシンが「文学は絵画より少なくとも50年は遅れている」と言って教えたカット・アップフォールド・インは、バロウズを悦ばせた。一言でいえば超編集術である。カット・アップというのは、新聞や雑誌や書物から適当なセンテンスやフレーズやワードを切りとって、これを前後左右縦横呑吐に並べていくカット&ペーストの方法をいう。ガイシンによると、この手法をつかうとわれわれの無意識情報やサブリミナル情報がその文体中にメッセージとしてエピファニー(顕現)してくるという。

◆松岡正剛『方法文学』より、0822夜『裸のランチ』ウィリアム・バロウズ

 18冊目の千夜千冊エディション『方法文学』は、[AIDA]第1講のちょうど1週間後に発売された。第4章に収録された0822夜『裸のランチ』が、最終セッションでのキーワードと呼応する。

安藤昭子氏:
日本のカットアップ感覚は、特に江戸の頃に花開いたと聞きます。田中優子先生、そのあたりのところをお話しいただけますでしょうか。

田中優子氏:
江戸時代のカットアップは、浮世絵に代表されます。見える景色全部ではなく、注目すべき中心も外して、脇の方に視点をずらすというやり方が頻繁に行われました。

 編集的社会像の構想を目指す[AIDA]は、方法知としての編集工学をプログラムの随所に組み込んでいる。各月の講座に編集工学レクチャーの時間があるほか、講座と講座の間にも、AIDA師範代*と座衆が濃密な編集稽古を交わすという徹底ぶり。これらは、昨季まで15期続いてきたHyper-Corporate Universityにはなかった試みである。

*イシス編集学校の指導陣(川野貴志、鵜養保、永田拓也、金井良子)4名がロールを担っている

 セッションの中でも自然と編集用語が横溢し、方法知の理解に欠かせない多様な適用例を、各界の達人たるボードメンバーがすかさず提供する。AIDAボードメンバーであり、法政大学総長で江戸文化研究家、イシス編集学校では[離]を退院した千離衆でもある田中優子氏が、江戸のカットアップについて語った。

田中優子氏:
どうして主題を中心にしないのか。カットすることによって、時間感覚が入って来る効果を狙っているんですね。現実において、対象と自分のどちらかが動いているとき、自分に見えるのは一部分です。私たちはその感覚を持っているので、カットされた断片を見ると、まるでそれが動いているかのような感覚を持ちます。そして、描かれていない周囲が見えてくる。浮世絵は、頭の中に展開される想像力の世界を計算して描かれているんです。

 カットによる「限り」が生む余白と、切るという行為が立ち上げる自他および自他のアイダ感覚。江戸のカットアップについてのさらなる探求には、田中氏の『布のちから』や『江戸の想像力』をお勧めしたい。以下に一部を引用する。

 浮世絵のスナップショットの方法=切断の方法は、断片の方法である。たとえば広重が『名所江戸百景』の中で描いた一枚に、日本橋を通る魚屋の図があることは、すでに紹介した。この事例は、初鰹が売り出された初夏の朝、日本橋の魚市場から町へ繰り出していく魚屋が、今、目の前を左(魚河岸の方向)から右へ早足で通って行ったその瞬間を、まるでカメラが近づきすぎて失敗したかのように描いたもので、初夏の江戸の日常のかすかな断片である。そしてそれを見る江戸人たちの眼は、そのかすかな断片の向こうに、初夏の風を切って通り過ぎる魚屋の活気を充分に感じ得た。それは「初物」の活気であり、早朝の活気であった。橋の欄干の向こうにわずかに覗く江戸橋の背後が朝焼けと思われる色に染まっているので、江戸人はそれを早朝だと判断できる。江戸橋は日本橋の東に位置しているからだ。断片はこうして、江戸全体の地理から季節、時間、動き、活気までをも表現した。このことを、石庭を筆頭とする日本庭園の構造に対応するものと考えるのは、少しも無理がないだろう。砂利から覗く石の頭を、雲海に突き出る眼もくらむほど高い山々だと考えるのは「見立て」というが、断片とはつまり、見立ての方法のことである。

◆田中優子『布のちから 江戸から現代へ』164p-

 接続関係のはっきりした言語表現からみると、関係を限定しない関係の表現 —— たとえば列挙表現 —— は機械の遊びと同じような意味での「意味の遊び」が大きく、極めて不安定にみえる。伝達効率も悪い。にもかかわらず、「取り合わせ」や「間」や「連なり」が意味を形成していくという、論理関係とは異質な意味生成の可能性が、ここにはあった。

◆田中優子『江戸の想像力』255p-

いとうせいこう氏:
「切る」という行為自体が、おそらく編集というものなんですね。

 この日、カットアップについて熱い交わし合いが起こったきっかけは、いとうせいこう氏の発言である。いとう氏は、ボードメンバーとして[AIDA]に寄せた「見方集」にて、紙幅の制限なしという自由を謳歌するかに見えたウェブ媒体が、限るという方法、読み手に託すという方法を喪ったことを指摘している。[AIDA]には、ネットの進化を牽引し、今という時代を作ってきた企業からの参加者も多く、「ネットの進化のかげで喪失されたエディトリアルの本質」は重大なテーマであった。

 むろん、ネットそれ自体がエディトリアリティを殺し続けてきたわけではない。新たな技術、新たなメディアの上でこそ生み出される編集もあるだろう。イシス編集学校はオンラインのテキストコミュニケーションを主とするが、[守]のカット編集術や[破]の物語編集術をはじめとして、あらゆる編集の土台として「限る」ことの重要性を繰り返し学ぶ。編集稽古に取り組む時間さえも、最適に「限る」ように仕組まれている。

 「のぞき」は強調の手法であり、なおかつ受け手に"覗き込ませる"というコミュニケーションのきっかけづくりでもある。つまり、あらかじめ双方向性が目指されているわけだ。送り手が用意する「空き地」は、たぶん受け手と共に存在するための場所なのである。

◆荒井修・いとうせいこう『江戸のセンス 職人の遊びと洒落心』41p

 切るという編集、切ったものの組み合わせ、そして余白のクリエイティビティについては、松岡座長の多くの著作はもちろんのこと、[AIDA]の運営責任者である安藤昭子氏(編集工学研究所専務)が8月に出版した『才能をひらく編集工学』が詳しい。
 座長が予告したとおり、Hyper-Editing Platform[AIDA]全6講を通じて、じっくりと確認していくキーワードになるだろう。

 伏せて開ける」ことで触発されるイマジネーションは、「美意識」の観点のみならず、人間の創作力や想像力や記憶力のメカニズムから見ても、いたって理にかなっていることです。
 わたしたちが情報を頭に入れる時には、短期記憶と長期記憶と呼ばれる記憶領域が動きます。認識した情報はまず短期記憶に入り、それが何かしらの「意味」と結びついた時に、長期記憶として保存されていきます。
(…)
 この短期記憶から長期記憶へと情報が渡されるあいだには、踊り場のような記憶の領域があると言われています。中期記憶と言ったり、リハーサル記憶と呼ばれたりしますが、「伏せて、開ける」ことで引き出される編集力は、どうやらここに関連しているようです。
(…)
 人間は、インプットされた情報によって世界を認識しているだけでなく、その情報の「不足」によって意味をつくり出している。その足りない部分を補い統合していく能力が、人間の想像力の大きな部分を占めているとも言えそうです。
(…)
 日本人がことさら「余白」や「引き算」や「不足」や「不完全」を重視してきたのは、「何が」という実体への理解よりも、「どのように」の中に立ち現れる「生き生きとした面影」を交換することに、人間のコミュニケーションの本来があると見てきたからかもしれません。

◆安藤昭子『才能をひらく編集工学』172p-

松岡座長:
ルネ・デュボスの『場所の精神』の中に、小さな場所を失うとインスピレーションがなくなるという指摘があります。 鍵と鍵穴をすべてPeer to Peerにしてしまうと、エンシオスの神がいなくなる。エンシオスというのはインスピレーションの語源です。日本で言うと音連れ影向です。それがやってこなくなってしまう。そういうことをデュボスが説いていたので、僕は非常に、彼から影響を受けました。

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https://edist.ne.jp/list/aida_kw003/feed/ 0 15926
【AIDA】KW File.02「エリー湖とDUST」 https://edist.ne.jp/list/aida_kw002/ https://edist.ne.jp/list/aida_kw002/#respond Fri, 30 Oct 2020 01:42:06 +0000 https://edist.isis.ne.jp/?p=14858

KW File.02「エリー湖とDUST」(2020/10/17.第1講)

本コーナーでは、Hyper-Editing Platform[AIDA]の講義で登場したキーワードの幾つかを、千夜千冊や編集学校の動向と関係線を結びながら紹介していきます。

松岡座長:
われわれは、大きな境界ではなく、小さな際を作りなおさないとダメだろうと思います。そうしないと何が起こるか。エリー湖と夢の島です。

 座長の言うエリー湖とは、グレゴリー・ベイトソンの『精神の生態学』に登場する譬えを指している。エリー湖はアメリカの五大湖のひとつで、長野県と新潟県を合わせたほどの大きさをもつ。1950年代以降、アメリカの工業用排水と家庭用排水を受けとめ続け、やがて水質汚染が深刻な問題となった。編集学校でコースの受講を重ねると、いつしか出会うキーワードでもある。

 「生命と文明のAIDA」というテーマが掲げられた今期、SeasonⅠの座衆は、開講前に2冊の課題図書『情報生命』『文明の奥と底』を読破することを求められた。『情報生命』第1章(0446夜)から引き出された見方が、座長講義の語りによって深まり、世界を捉えるための方法として昇華されてゆく。核燃料廃棄物、いじめ、芸能人の自殺…、一見ばらばらに見える問題群に通底するアティテュードが見えてくる。

松岡座長:
東京にも、夢の島という場所があります。そしていま、核燃料廃棄物の捨てどころを探している。いじめもDUSTのシステムです。
お前がDUST扱いをしただろうといって犯人捜しをしても始まりません。誰かを犠牲にするような構造、ムードや評判ボタンがある。何かをDUSTにしようとしている思想そのものに限界があるんです。

 ベイトソンのエリー湖の譬えは、『精神の生態学』の終盤、「エピステモロジーの正気と狂気」という章に登場する。精神衛生学会(1969年、ハワイのイースト=ウェスト・センター)での口頭発表をもとに起こされたテキストだ。

松岡座長:
ベイトソンが言ったのは「都合の悪いものはすべてエリー湖に捨ててきたが、アメリカが今こうしてあるのは、つまりエリー湖のお陰ではないか。ゴミを引き受けたエリー湖がなくなったらどうするんだ」ということです。

 編集学校では、[守]の早い段階で、システムという見方についてのヒントを学ぶ。システムは境界を持ち、その外側に環境を持つ。しかし、我々はときに、DUSTをDUSTにするためだけに境界を引き直しているのかもしれない。

生き続け死に絶える単位は「生物プラス環境」です。環境を滅ぼす生物は自らを滅ぼす。このことを、いまわれわれは苦い経験を通して学びつつあるわけです。(『精神の生態学』)

生存ユニットを誤認するという認識論的誤謬が、この世界に何をもたらすか考えてみてください。種対種、種対環境という対立の構図が思考の中に定着したその結果、カネオーイ湾(オアフ島)の汚染と、エリー湖全体のヘドロ化と、隣人殺戮のための巨大な原子爆弾の製造が起こるということは、実によく納得の行くところであります。雑草のエコロジーというものがあるように、粗雑な観念のエコロジーというものがあって、システムが基本的なところで誤りを抱えていると、それは全体に波及せずにはいないのです。悪性の観念は、生命組織にやどる寄生植物のように根を下ろし枝を這わせて、システム全体をまったく違った姿に変えてしまうのであります。(『精神の生態学』)

 ベイトソンは、習慣によって強化される観念が、我々の行動に与える影響に警鐘を鳴らす。誰かにDUSTを押しつける横暴、誰をもDUSTと特定できない場合に、システム自体に悪をなすりつけるナンセンス。エリー湖の「狂気」があらわになった50年前、ベイトソンが東洋に探し求めていた「正気」は、いまの日本にも生き延びているだろうか。

 先の引用の続き、最も心に刺さる一節は、ぜひ千夜千冊 0446夜 のラストから参照していただきたい。

松岡座長:
あるプロセス全体に関わるすべて、主語も述語も形容詞もゴミも含めて、文脈を成立させているすべてを引き受けるのがエディティングです。それをみなさんと、そしてたくさんの書物と共にやってみたい。それが、Hyper-Editing Platform[AIDA]です。

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【AIDA】KW File.01「埒をあける」 https://edist.ne.jp/list/aida_kw001/ https://edist.ne.jp/list/aida_kw001/#respond Fri, 23 Oct 2020 15:00:43 +0000 https://edist.isis.ne.jp/?p=14451

KW File.01「埒をあける」(2020/10/17.第1講)

本コーナーでは、Hyper-Editing Platform[AIDA]の講義で登場したキーワードの幾つかを、千夜千冊や編集学校の動向と関係線を結びながら紹介していきます。

松岡座長:
とはなにか。これは、僕がほんとうに考えたいことのうちの一つです。

 「埒」はもともと、馬場の周囲に巡らした柵のことをいう。そこから、ものごとの区切り、範囲、限界といった意味が生じた。しかし、我々はふだん「埒があかない」と柵の外でイライラするばかりで、埒そのものについて深く考えてこなかったのではないか。

 松岡座長は、常に「埒」にまなざしを注ぐ。
 1994年に創刊されたプライベート・ペーパー「一到半巡通信」には「埒外案内」というコーナーがあったというし、千夜千冊Webの1001夜から1144夜には「放埒篇」という名前がついている。埒外とはある物事の範囲外のこと、放埒とは囲いから放れ出ることだ。

松岡座長:
埒をあけなければならない。vacantではなく、availableにするということです。
誰かががひょっとしたら座って、また去っていくようなが必要です。

 ここで、松岡座長の著作から、「埒」についての記述をいくつかご紹介しよう。

みんながみんな、手前の埒の開削にとりくみはじめたのである。ここに江戸の感ビジネスの芽が吹いたのだった。(215p)

 ひとつめは、千夜千冊エディション『感ビジネス』
 第二章から第三章にかけて、埒を囲うこと(エンクロージャー)を揺り籠としたグローバル資本主義に、石田梅岩に始まる江戸の「埒をあける」哲学を対比させている。0807夜『都鄙問答』は必見だ。

われわれはいささか自分の使っている意味の生態学を忘れすぎたようだ。これも先日のことだが、アメリカ人に「埒」の説明をしてみた。埒は柵で囲んだ場所のことをいう。欧米ではエンクロージャーに代表されるように、埒を囲んで資本を蓄積するのが常識になっている。しかし日本人は「埒をあける」という方に努力する。そのことを日本も忘れてしまったので、バブルがはじけたのだという説明をした。(105p)

 二つめは『孤客記 背中のない日本』。
 雑誌「エコノミスト」の巻頭言をまとめたエッセイ集で、まさに「ヤバい90年代」の真っただ中に執筆されたものだ。25光年の距離を隔てて、座長の危機感が今に届く。

実は、文化とは埒をあけるためのもの、またすでに埒があいて新たに構成やしくみを変えて発動されていたものだったのです。わかりやすくいえば、文化とは「根まわし」と「埒があく」が別のところに転移されてできてきたものなのです。(268p)

 三つめは、今年の3月に出版された『日本文化の核心』
 引用した箇所の直前に、埒をあけるためにはどうすべきか、という方法論が語られており、3冊の中では最も直截に、埒というキーワードの手すりが提供されているといえるだろう。

 しかし、いずこにも「正解」は存在しない。座長自身が「埒とはなにかを"考えたい"」というのだから、これは[AIDA]を構成するお題であって、Hyper-Editing Platformのなかで深められていくべきキーワードなのだ。内と外とを分断せずにつなぐインターフェイスを「」という。「際」と「埒」との関係も、いつか紐解いてみたい。

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【AIDA】EDISTicker 01 コケとすすきの室礼(しつらい) https://edist.ne.jp/post/%e3%80%90aida%e3%80%91edisticker-01/ https://edist.ne.jp/post/%e3%80%90aida%e3%80%91edisticker-01/#respond Wed, 21 Oct 2020 09:00:12 +0000 https://edist.isis.ne.jp/?p=14817
折り取りてはらりと重きすすきかな 飯田蛇笏
渾沌は阿呆なるらん苔の花 永田耕衣

Hyper-Editing Platform【AIDA】の会場である本楼には永田耕衣(0024夜)と飯田蛇笏の短歌の書(松岡正剛・筆)がひそやかにしつらえられていた。Season01のテーマである「文明」が耕衣の歌に、「生命」が蛇笏にそれぞれ加筆されている。

 

◉「すすき」と「苔の花」は植物の一対。すすきは、秋の季語で七草のひとつにかぞえられている。漢字で「薄」とも「芒」とも書く。同じイネ科の「葦」(アシ)とともに茅葺(かやぶき)の材料になった。

 

◉日本の古代神話は「豊葦原水穂国」と美のシンボルとして「葦」を持ちだした。そんなふうに葦が美しいとか、すすきの重さやスキやキライを人間が交わすようになったのはなぜだろうか。ヒトザルがアドレッサンス(発情期)を失ったからなのだろうか。

 

◉転がる石に苔は生えない(A rolling stone gathers no moss)。この英語のことわざは苔の見方で解釈がカワル。日本人は断然、『苔とあるく』(1614夜)派だろう。コケ派とシダ派でも分かれる。もしも『シダの扉』(1476夜)の向こうを知らないとしたら、世界の半分を知らないことになる。

 

◉そもそも陸上化の先頭を切ったのがシダだった。海の中のシアノバクテリアに始まった藻類が陸上化してシダ植物になった。さらにどこかのタイミングで地面にへばりつく蘚苔類が分岐した。「シダ」と「コケ」、「葦」と「薄」、「耕衣」と「蛇笏」、この微妙なAIDAのキワに迫っていくことからハイパーエディティングは機動する。

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【AIDA】新生ハイパー、ついに開幕! https://edist.ne.jp/just/aida_s1_001/ https://edist.ne.jp/just/aida_s1_001/#respond Sun, 18 Oct 2020 22:00:35 +0000 https://edist.isis.ne.jp/?p=14522  

「Universityでは、間に合わない」。

 

 10月17日、豪徳寺の本楼でHyper-Editing Platform[AIDA]の第1講が開催された。


 次世代リーダーの研鑽と共創の場。15年の歴史を誇ったHyper-Corporate University [AIDA]が、この秋、座組を一新して生まれ変わったものだ。SeasonⅠの会期は2020年10月から翌3月までの半年間、合宿を含む全6回のリアルセッションと、イシス編集学校のメソッドを取り入れたオンライン稽古とで構成される。

 

「Universityでは、間に合わない」。

 

 これは、松岡正剛座長と[AIDA]運営責任者の安藤昭子氏が、事前のキックオフおよび17日の第1講で繰り返した台詞である。

 

 これまでは「学びの場=University」だった。
 しかし、いよいよ混迷を極める日本と世界の状況を鑑みるに、もはや30人の参加者が個人的に学ぶというだけでは「間に合わない」。一座の参加者が、よってたかって[AIDA]を知のPlatformとして磨き上げ、社会のアセットとしての成果を生み出し、発信し、還元していくところまでを目指したい。新生[AIDA]の名付けには、そのような思いが込められている。

 

 この危機感に対応すべく、AIDAボードメンバーという強力な伴走組織も立ち上がった。分野を超えた達人たちが、座衆と共に、向かうべきターゲットとしての「編集的社会像」を追究してゆく。

 

 

 既に第1講から、座長・ボードメンバー・座衆が入り交じって切実な課題意識を場に放ち、それぞれのバックボーンから熱く深く見方を交わし合った。我々は「間に合わせ」なければならないという意識が[AIDA]をつなぐ。

 

 

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https://edist.ne.jp/just/aida_s1_001/feed/ 0 14522
新生ハイパーエディティングプラットフォーム[AIDA]キックオフ 10shot https://edist.ne.jp/list/aida_kickoff_10shot/ https://edist.ne.jp/list/aida_kickoff_10shot/#respond Sun, 23 Aug 2020 22:27:40 +0000 https://edist.isis.ne.jp/?p=11311  ”ハイパー”が生まれ変わる。

 

 15年続いたハイパーコーポレートユニバーシティ[AIDA]は、4月の15期最終講をもって一区切りを迎えた。2020年からHyper-Editing Platform [AIDA]として立ち上がり「次世代リーダーのための学びの場」のみに留まらず「知のプラットフォーム」として社会で機能することを目指していく。

 

 塾長は座長として立つ。AIDAボードメンバーには各界の有識者を講師陣として迎え、新たなロール「間匠」も誕生。イシス編集学校の師範・師範代も様々な形でプロジェクトに関わることとなる。

 

 8月20日にキックオフミーティングが行われ、オールスタッフが顔を揃えた。新生[AIDA]を引っ張っていく主要メンバーを10shotでお届けします。

 

 

●全体統括:安藤昭子

「編集工学を全面化し、編集によって世界を見ることはAIDAのカマエとして絶必」これまでの変遷とここからの構想をメンバーに発表する全体統括 安藤昭子。

 

●間組統括:吉村堅樹

「方法と世界知をどう重ねていくか一緒に考えていきたい」学びのプログラムを進める指導陣・間組(あいだぐみ)を率いる吉村林頭。編集学校の先鋭もAIDA師範代としてイシス式方法知を注いでいく。

 

●間匠:奥本英宏、福元邦雄

師範的ポジションの幹事を任されている頼もしき”ふたもと”の紳士。この度「間匠(ましょう)」というどこにもない新たなアブダクティブロールを掲げて、座を引き上げる。

 

●テクニカルディレクター:小森康仁

「リアルとオンラインのソーシャルディスタンスをどう縮めていくか」オン・オフラインの間を繋ぐハイブリッドなメディエーション、最高のリモートシステムに挑むテクニカルチームを率いる小森康仁。

 

●マネジメント・司会:佐々木千佳

「兼ねてから松岡座長とみなさんが仕事をする現場をできるだけたくさん作りたいと思ってきた。編集学校のみなさんも混ぜて今回AIDAが立ち上がったことに20周年の節目の意味も感じる」毎期司会を務め、誰よりも長くハイパーに関わってきた佐々木千佳局長。

 

●メディアチームリーダー:橋本英人

コンテンツのメディア化も[AIDA]の新しいチャレンジとなる。「問いがここから生まれ、蓄積されて、ハイパーリンク状態となり社会に還元していくようなメディアを目指していきたい」8月に編集工学研究所から出版された『探求型読書』(クロスメディア・パブリッシング)の執筆も担当した橋本英人。

 

●座長:松岡正剛

「これまでたくさんの著書を書こうと、編集学校の校長になろうと、大学の教授になろうと、自分の中のソーシャルディスタンスを作ってきた。本を書くときに一番みんなが届かないところから書きたくて『ルナティックス』『フラジャイル』『花鳥風月の科学』『外は、良寛。』など出してきた」

 

僕は簡単に社会化できない、メディアにならない、シンボルにならないと一定の距離を保ってきたが、僕自身の中で近づいてくる足音を感じ始めた。インターネット、SNSの登場で何かが遅ればせになる前に社会化を図り、出したのが『インタースコア』。編集的社会像をもう少し出そう、いろんな人と組み合わさってやろう。その際全部アイダだけをとっていこうと始まったのがハイパーであった。

 

「座長としてみんながどこまでやるかにディペンドしたい」

座長からハイパーのこれまでとここからを受け、メンバーはそれぞれのロールで静かに気持ちをたぎらせていく。

 

 Hyper-Editing Platform [AIDA]は10月開講を迎える。

 

 

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https://edist.ne.jp/list/aida_kickoff_10shot/feed/ 0 11311